クメール・ルージュの再来 フン・セン政権 弾圧の全貌〜PKO派遣から25年 今カンボジアでいったい何が起きているのか〜

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※執筆中のノンフィクション原稿を全文オープンにしています。

目次

 

 

プロローグ 

 

第一章 

  • ファストファッションの舞台で
  • ユニクロ潜入取材を受けて

 

  • 「社会貢献」の言葉に違和感
  • ファストファッションは悪なのか

 第二章

  • ジャーナリズムとの出逢い
  • 私がカンボジアにたどり着いたワケ
  • 東日本大震災が社会を変えた
  • 「現地」は知っている、「現場」は知らない
  • 就職活動のテッパンネタに
  • フリーで働くことの意味

第三章 

  • 闇との闘い
  • 熱風吹き荒れる「デモ行進」
  • 消えた4人の命の灯火
  • 死亡者数に数えられなかった少年
  • 事件現場で出会った日本
  • 国会議員を殴打
  • 耳障り良い「国際協力」
  • 初めてのジャーナリズム
  • カンボジアの国営放送へ
  • バイクショップで活動家と出会う
  • 労働組合リーダーの死
  • ジャーナリストとは何なのか
  • プレスパスで命を守る
  • 垣間見えるクメール・ルージュのカケラ
  • クメール・ルージュ後の世界
  • 常識と非常識
  • 伝える意味を考える

 第四章

  • 下請け工場とはなんだったのか
  • 入国禁止のトラウマ
  • 縫製工場にアポなしで突撃
  • 工場に詰まった希望と落胆
  • 縫製工場で働く人は「かわいそう」なのか
  • 一人歩きする労働者の集団失神
  • 誰にとって理不尽な契約方式?
  • 家賃35ドル生活の描き方
  • 物価上昇を読み解く
  • 「工場で働くことは安全で安心」
  • ユニクロ下請け工場の実態

第五章 

  • 正義と欲望のはざま
  • 寄り添った搾取ビジネス
  • 労働組合による政治利用
  • 強者が振りかざす斧
  • 「小さな声」という幻想
  • 工場の閉鎖は免税のため?
  • 「リテラシー」という名の無責任
  • ジャーナリストは市民の声を伝えればいいのか

 第六章

  • カンボジアの向かう先
  • 自動化は何をもたらすか
  • カンボジア発ブランドが世界へ羽ばたく
  • 「徹底した透明性」のお手本
  • フン・セン首相と対面
  • 弾圧の過激化
  • ジャーナリズムの死
  • 外務大臣・河野太郎氏のブログ
  • SNS時代の取材術と河野大臣からの応答
  • エゴイズム

 

特別対談

池上彰氏

伝えるためには「ストーリーをつくれ」池上彰流「カンボジア」の伝え方 

おわりに

 

 

 

 

 

プロローグ 

                                 

2017年9月、スイスのジュネーブで行われた人権理事会において、カンボジアの人権状況が議題となった。日本の外務大臣である河野太郎氏は自身のブログにおいて「日本外交の小さな勝利」というタイトルで、外交の様子を発表しており、日本だけでなく世界がカンボジアに注目している。しかし大半の日本人の時計の針は、昔のまま止まっている。

より人権状況が深刻となったのは2017年9月、10月の2ヶ月である。まもなく33年目に突入するフン・セン政権の支配に、国民の鬱憤が晴れることはない。9月、カンボジア・最大野党の党首が、突如、政府の命令によって逮捕されることになった。「国家反逆罪」というとってつけたような理由であった。その数日後、次のターゲットとなったのは、ジャーナリズム。24年間、発行し続けてきた英字紙が、多額の税金を要求され、死を迎えた。

10月には、最大野党の副党首に逮捕勧告が出たため、国外へ逃亡せざる得ない状況に陥り、相次いでその他の国会議員も半数以上国を去った。その間、政権与党は国会で、野党解党を要求し、今もなお続いている。これが今のカンボジアの「一部」である。その全ては、2018年7月に行われる総選挙に向けての締め付け強化だと言われている。この期間中に、国民を恐怖に震え上がらせる出来事がないことをただ願うばかりである。

 

2012年、私は初めてカンボジアという乾いた大地に足を踏み入れた。その空気と人柄に惹きつけられ、およそ一年間の滞在も経験した。しかし、その大地に根付く人々のはにかんだ顔の裏側にある事実を知れば知るほど、数々の疑問と怒りと悔しさが私の心に積み上げられていった。

日本がカンボジアにPKOを派遣してから25年、岸信介元総理がカンボジアを訪問してから60年が経った。そしてクメール・ルージュと言われるポル・ポト政権が崩壊してからまもなく39年が経とうとしている中、現政権、フン・セン首相の支配は33年目を迎える。独裁者として脂がのってきた。

日本ではPKOやポル・ポト大虐殺が長期間にわたって検証されてきた。しかし、カンボジアの「今」が切り取られた情報が上がってくることはほとんどない。

その一方で、世界の国々、特にカンボジアの国民は、日本に大きな期待を寄せている。

「(次の選挙でもし政権が奪われるようなことがあれば)戦争をすることも厭わない」という発言をしたフン・セン首相は、欧米諸国からの支援など必要ないと強硬な姿勢を見せている。それは、バックに中国がいるからに他ならない。

カンボジアと中国の絆は深まり続ける一方で、中国以外の国で、フン・セン首相が耳を傾ける国は、他ならぬ、昔から継続して支援し続けてきた日本しかない。資金のみならず、人の犠牲を出し、カンボジアを支援してきた理由は、たった一部の人間の富を築くためにあったのだろうか。

私はカンボジアの専門家ではない。カンボジアの文化について知らないことも多ければ、カンボジアの言語であるクメール語だって、日常会話に毛が生えた程度である。

「歴史を知らないくせにカンボジアを語るな」と叱られそうではあるが、私は私なりの視点でカンボジア、そしてこの生きている世界について学んできた。

 

当初、カンボジアを専門的に描いた本を出すという気概は全くなかった。むしろ、「カンボジア」というテーマを一切排して伝えることのほうが、私には大事な気がしてならなかった。「カンボジアに興味のある人なんて一部」だし、日本人が海外のことを知りたいと思う人もまた一部である、と、私は薄々感じていたからだ。

 

周りからはさんざん「どうしてばかみたいに誰も興味のないことを追いかけているの?」という目で見られてきた。それでも私が現場で感じた、人間の営み、恐れ、葛藤、喜びなどを伝えたいと思った。「私がいなくなれば、代わりにやる人がいなくなる」という勝手な勘違いであるが、無論、本気でそう思っていたりする。

 

私が初めてカンボジアを訪れてから5年が経つが、その間に日本社会にも様々な変化があった。

週刊文春「ユニクロ潜入 下請け工場の闇」や映画「The true cost ファストファッションの代償」といった記事や映画が話題となり、私たちの暮らし方や生き方に関心を持つ人が増えてきた。、世界では、SDGs・持続可能な開発目標が示され、日本では、ピコ太郎と東京都知事・小池百合子氏の共演映像が制作されSDGsの認知度をあげようと取り組んでいた。

 

そんな中、どうしても拭えない違和感があった。

果たしてどれだけの人間が机上の空論ではない現地の人の声を聴き、どれだけの人間がSDGsという目標に対して真摯に向かっているのだろうか。

まるでブームのように、軽々しく口にしている、まさに自分の知識をひけらかすために利用されている印象を受けてしまった。そして、それはまさしく自分に向けての言葉でもあった。

気がつけば日本社会の荒波にのまれ、カンボジアのことなど昔の思い出に過ぎない、そんな他人事扱いしている自分にどうも腹が立って仕方がなかった。

 

これをきっかけに、「私だからできることは何か」を考え続けた結果、現地の人脈や土地勘を基に「下請け工場」にテーマを絞った。

先進国へ向けて商品を生産する途上国の下請け工場や、それを取り巻く関係者を尋ね、労働者の日常生活や縫製工場の実態を浮かび上がらせるためカンボジアを取材した。

カンボジアは、日本を始めとした世界中の国が安い労働賃金を求め、洋服やバックなどの衣料品を作るよう取引を行う、まさにファッションの生産現場である。この国を語るには、衣類産業は外すことはできない。輸出の大半を衣類が占めているし、多くの国民が縫製労働者として従事している。その影響力の大きさは、フン・セン首相が、自らの支持率アップのために、縫製労働者の最低賃金引き上げを政策として行うほどである。つまり、この国を語るには「縫製業」は避けて通れない道なのである。

 

そういうわけで、カンボジアの色を消すため、私たち誰もが身につける「洋服」という切り口から、この国の現状を伝えてみようと思った。

取材している中で、ファッションを通じてカンボジアの今を切り取ることができるという一筋の光をたぐりよせることができた。しかし、この想いはまた一周することになった。ファッションだけで伝えることに納得できなかったのである。なんという面倒くさい男なのだろうか。

カンボジアで待ち受けていたものは、大量消費社会において、犠牲者である「かわいそうな労働者」でも、搾取する「工場のオーナー」でもなかった。

人々の欲望と思惑が入り乱れるこの複雑な社会の縮図ともいえる国を舞台に、取材を重ねてきた筆者の葛藤を交えながら、出会った人々の複雑な心のひだを描いた。これは誰に何を言われようとも、私が取材した偽りのないカンボジア人の声であり、私がその光景を目の前にして感じた事実なのである。

大量虐殺時代を乗り越えたこの国に、再び、国亡ぶ危機が訪れようとしている。

 

 

 

5つのポイント

1.ファストファッションや下請け工場への事実なき批判は、むしろ縫製工場で働く労働者たちにとってマイナスとなる。

2.問題の本質は、中間でお金を搾取される仕組みとその層の私服を肥やす他国からの支援。そして、最低賃金が定められているのは縫製業のみ。

3.カンボジアに対する日本の政治、経済的役割は非常に大きい。このままでは30年に及ぶ独裁政権の横暴は止められない。来年の総選挙が歴史の転換点となる。

4.ユニクロの工場は環境もよく、労働者やスタッフの評価が高い。CSRもきちんとオープンにしている。

5.ジャーナリストを目指す筆者はカンボジアを通じて自身の生き方について葛藤

 

 

 

 

第一章 ファストファッションの舞台

 

ユニクロ潜入取材を受けて

 

カンボジアの首都、プノンペンは、相変わらずじりじりと灼熱の太陽で迎えてくれる。例え町並みが外国資本のビルで埋め尽くされようとも、このじめじめとした空気の匂いは飽きることなく、存在し続ける。ユニセフやポリスのシャツを着る一般人たちがバイクを走らせている光景は何年たった変わらない。

二〇一七年の五月、私はプノンペン国際空港に降り立った。

きっかけは、ジャーナリストの横田増生氏が週刊文春で連載していた「ユニクロ潜入 一年」だった。

この連載は、実際に横田氏がユニクロの従業員として働き、企業の労働実態について取材したものであった。

その連載の中に書かれていた「カンボジア 下請け工場の闇」を読んだ。これは、ユニクロの製品を作っているカンボジアの工場で、労働者に対する人権侵害があったという主旨の記事であった。

私はいてもたってもいられなくなった。胸がざわつくのがはっきりとわかった。正直に言えば、悔しかったのである。横田氏への嫉妬だったのか、それとも自分自身への怒りなのか、その理由は定かではないが、果たしてその記事に書かれていることが、どこまで事実に基づいているのか、甚だ疑問であり、その記事を本来なら自分が書くべきものだったであろうと思ったのである。

しかし、実績も信頼も何も持ち合わせていない私が、一流週刊誌で書けるはずもなく、ただただ自身のブログで書き綴ったものの、数件のコメントがついたのみであった。

のちに詳しく記すが、私が初めて19歳のときにカンボジアに足を踏み入れてから5年が経つ。その間、一年間の長期滞在もした。帰国してからも、毎年通い続けるほど、私にとって惹きつけられた土地であった。

だからこそ、数日の取材で週刊文春の記事になっていたことに、複雑な感情を抱くとともに、「じゃあお前は何を知っているんだ、書いてみろ」と言われたら、正直、何も答えられない自分がいた。なんと醜い男である。

ただの文句で終わる人間になりたくない。横田氏は、実際にカンボジアに行ってはいるものの、ユニクロの工場に入ったわけでもなかった。それならば、私は実際に工場に入って取材しようではないか。

そうして、私の一年ぶりのカンボジア渡航が決まったのである。フリーター生活が始まって二ヶ月目のことだった。

 

「社会貢献」の言葉に違和感

 

ユニクロの記事が決定打になったことは間違いないのだが、実はそれまでにこの社会に対する鬱憤は溜まっていた。

SDGsというものをご存知だろうか。先述の通り、ピコ太郎と小池百合子東京都知事が一緒に踊っている広告映像が制作され、国をあげて認識を広めようとしているそのSDGsは、(Sustainable Development Goals)持続可能な開発目標と名付けられ、二〇一六年から二〇三〇年までの国際目標である。

国際社会が直面している問題解決に向け、貧困、飢餓、保健、教育など一七の開発目標・一六九項目のターゲットが掲げられている。

「the true cost ファストファッションの代償」といった映画も一部では盛り上がり、私たちの暮らしや生き方はどうあるべきなのか、といった議論も増えてきた。

 

他にも、CSR(企業の社会的責任)、CSVなどが取り上げられ、社会に貢献していない企業は「かっこわるい」「ださい」などのレッテルが貼られるようになった。

流行は、企業に大量生産を換気し、あっというまに過ぎていき、次々とゴミ箱に捨てられていく。安いものは使い捨てることに対して抵抗もなく、購入するのにもハードルが低い。この動きに対して、Noという人が増えてきたというわけだ。環境や労働者への配慮をきちんと行う必要がある。大量生産、大量消費の社会はやめようと声をあげる人もいる中、当然ながら、お金がまわるいい資本主義経済だという見方もあった。

そしてもう一つ、カンボジア渡航を決めたもう一つの大きな理由があった。

ユニクロがサプライチェーンをオープンにしたことである。

つまり、ユニクロがどこの工場で作られているのかという情報を公開したのである。

「サプライチェーン」という言葉を聞いたことはあるだろうか。

簡単にいえば、製品がつくられるまでの全体的な流れだ。

私たちのもっているもの、例えば、着ている洋服などは、どこでつくられ、どこからきて、どのような経路を辿ってその店舗にたどり着いているのか。

国際人権NGOなどが、「サプライチェーンのオープン化」を求めているのは、このプロセスを全て公開するべきだということだ。

これにより、プロセスの途中で、労働を搾取され、賃金が適切に払われていないということがなくなる。企業や工場側も、オープンにしているということで、外に見せても大丈夫なように常日頃から緊張感をもつようになる。騒動が起きれば、すぐに会社の信頼が損なわれてしまうからだ。内部にいる労働者たちの声も社会に届きやすくなる。

労働者たちは、「もう何を言っても無駄だから従うしかない」という、本当は誰かに聞いてほしくて、助けてほしくてたまらないのに。それでもどうしようもないんだという「諦め」から解放される。身体的な疲労だけではなく、精神的なセーフティーネットワークになるのだ。

しかし、どうもしっくりこないことがあった。各種イベントや場所でも、内容がほとんど同じなのである。「想像力を持つべきだ」とか「企業は責任を果たすべきだ」とか、確かにその通りだとは思うものの、その情景が全く頭に浮かんでこないのである。

確かに、過去の本では、日本ですら、女工哀史と呼ばれるような人たちや、他にも自動車工場などで働く人たちの本を読んでみれば、なんとなくわかるものの、今と昔、そして日本と外国ではあまりに状況が違うのではないかと考えるとともに、単純に、

「そりゃ、工場で物を作るために肉体労働するなんて、大変だよな」で終わってしまうことであった。

この問題に取り組もうとした矢先、「うーん。確かに、『労働者の人権侵害』はありうるだろうな。けれど仕方のないことであるよね」という認識は少なからず持っていた。

私自身、「その靴はどのような状況で作られていたのだろうか」ということを考える余地もなく、この問題に対してあまりに無知であったのだが。

表面上で言われていることは理解できる。けれど、深くこの問題について知らなかったし、違和感を持ち続ける自分もおそろしく格好悪かったので、とにかく調べてみることにした。

すると「集団失神・自殺」というキーワードが出てくる。

「61人が工場内で集団失神」「24時間勤務が横行」

縫製工場における労働環境の劣悪さを物語る見出しがインターネット上に踊る。

「労働者 ストライキ300人規模」のようなデモ活動は連日のようにどこかで起きていた。

カンボジアの工場で発生している問題について、私の取材ではなく、現地紙が報告しているものを載せてみたい。現地紙といっても、基本的に外資系、英字新聞であり、政府とは離れた立ち位置、いわゆる左といわれる新聞を参考にしている。

余談ではあるが、そのうちの1つであるカンボジア・デイリー紙は日本とも関係が深く、ニューズウィークの元日本支局長が立ち上げた新聞で、例えば、一面トップに、沖縄の怒りといった、写真が大きくのることもあった。だいたいどの紙も一ドル前後。日本とそう変らない。

これもまた余談だが、カンボジアのテレビ事情を言っておくと、日本よりも地上波の数は多く、13チャンネルあるといわれている。

まずは、「集団失神」、「残業」について。

現地紙によると、二〇一六年の失神した労働者の数は急増し一一六〇人以上に達した。二〇一五年には、六四六人。

報告書では集団失神を引き起こす要員をいくつか挙げており、一番の原因は「集団心理」によるものとしている。

次に多い原因としては残業を挙げている。他にも、化学物質といった理由もある。

二〇一四年の国際労働機関・ILOの報告書では、七〇万人の縫製労働者のうち四一%以上が貧血だと推測している。

労働組合は、工場で倒れる人を減らすのは労働省や工場運営者の責任であると、強く批判する。

両者には労働者への義務があり、労働省は安全な職場環境を整えない経営者を処分する責任があると訴える。

では、残業時間はどうか。

カンボジアの労働時間の残業は、1日2時間、週に12時間と法律によって決められている。しかし、基本的には、残業は行われている。のちほど、私が聞いた話を述べるが、残業といっても悪いイメージを持たない労働者も多い。それは、残業代で稼ぎたい日本の会社員も同じだろう。

ある新聞では、やや強めの論調で、「時間外労働を拒否すれば、解雇するぞと脅される。適切な給料を払われないケースもある。他にも、トイレに行かせない、休憩はなしにするなどの脅しがかかることもある」と報告されるケースもある。このような状況を知れば知るほど、怒りで頭が支配されるようになっていった。

 

ファストファッションは悪なのか

 

ファストファッションが世界から問題視され始めたのは、バングラデシュで起きた倒壊事故が大きいと言われている。

口が裂けても言えないが、この事件が起きたときのことを私は全く覚えていない。

2013年4月24日、バングラデシュの首都・ダッカ近郊で縫製工場となっていたラナプラザというビルが倒壊、およそ1100名もの人々が亡くなった。

低賃金、過酷な労働環境がもたらした負の歴史であり、当時の状況が報告された記事を読むと、つい顔を歪めてしまう。しかし、この代償は認識されていないというのが現実だ。

こういったものに触れ続けていた当時の私は、全ての出来事を懐疑的に見るようになっていた。

例えば、ファストファッションの代名詞であるユニクロが行っていたキャンペーン、「シリア難民に服を届けようプロジェクト」を打ち出す広告の力の入れ方が強く、私にはそれが、だんだんと明るみに出てきた闇の労働搾取をかき消すためのメディア戦略にしか見えなかったりした。

悔しかった。私たちが何の気なしに着ている服が、彼らに血を流させているという事実が。それは紛れもなく、それを知っていてもファストファッションを好む自分に向けられているものでもあった。けれど仕方がないのだ。その商品が欲しいのだから。ブラック企業は嫌いだけれど、ブラック企業が作った商品は好き。これは紛れもない事実であろう。

そして、そのサプライチェーンの認識が広がるのに、何年時間がかかるのだ。広がっても本当にこの問題は解決するのか、というやりきれない怒りすら感じていた。

 

CSRなど表面的だ。私たちは社会にこれだけ配慮していますよ、縫製工場のコンプライアンスをきちんとチェックしていますよ、とホームページに掲載するだけでよいのだから。会社がお化粧をしている状態とも言えるだろう。

例えそれが、工場を何回訪問しました、監査を何回行いましたという書き換え可能な数字であったとしてもよいわけだ。誰も何も疑わない。

いくら環境に配慮したSDGsやCSRなど、流行りにもならない一過性の言葉を声高に叫んでも、結局は小さなコミュニティの中で、終わってしまう。

「知っている」ことと、「体験している」ことには大きな差が出る。「概要」などの表面的な話をするよりも、「詳細に」イメージできなければ、人は動かない。実際に工場に足を運んだ人がどれくらいいるだろう。自分が体験していないのに、「環境問題」について話しても、誰が信頼してくれるだろうか。

テレビで「シリアでは戦争が起きています。わたしたちも真剣にこの問題について考えなければいけません」と、普段バラエティ番組をやっている女性アナウンサーに言われるのと同じである。

何より、私自身がそうすることが嫌で仕方なかったということに過ぎない。

机上の空論を繰り返し、SDGsの浸透も広がる様子を見せない日本に、私ができることは何か。それは私が直接、現地で話を聞くしかない。

それこそ、鼻息を荒くして、僕はこの問題について、取材するんだ!と。

いつもこうだ。周りが見えなくなる。現地に行きたい。僕はこの問題を自分のこの目で見たい。それがことの発端だった。

何より、縫製工場で働く人間たちがどんな生活を送っているのか、これを言ったら失礼だが、とてつもなく大きな好奇心に誘われた。

それと共に、これなら日本の皆にも、カンボジアという国の状況や、世界の社会的側面が伝わりやすいのではないか。という下心もあった。

国際的な社会問題を伝えたいと願う私は、いつも切り口を考えており、私のアンテナにひっかかったというわけだ。

 

プノンペンには、過去に大量虐殺が行われた場所を展示している博物館や、

キリング・フィールドと呼ばれる虐殺地があり、多くの外国人が観光スポットとして訪れている。

日本人の多くはご存知だとは思うが、カンボジアは、クメール・ルージュと呼ばれる大量虐殺が行われたという歴史的事実を持つ国である。

当時の首相・ポルポト氏が築いた政権では、約4年間で三〇〇万人のカンボジア人に死をもたらした。第二次世界大戦の日本の戦死者数をはるかに上回る。さらには人口が六〇〇万人の国で、である。

私もこの歴史について、なんとなく知ってはいたものの、それはまさになんとなくであり、「大虐殺」と簡単に一言で表してしまうような人間であった。けれど、さすがにこの国に住むとなると、もっともっと知りたいし、知らなければいけないという焦燥感もあり、書籍を手に取るようになった。

中でも、印象に残っている著書は、朝日新聞のスター記者だと言われていた本多勝一氏「検証 カンボジア大虐殺」である。クメール・ルージュが支配し、虐殺がどのようにして起きたかを丁寧に現地を歩きながら検証されている。少しばかり中にある文章を紹介してみたい。

「薄暗くなりはじめた六時頃、兵隊たちは名簿を見ながらある家族の名を呼んだ。その一家全員が出ると老人や幼児以外はうしろ手に縛られた。兵隊らは全員を穴のふちに引き立て、かがむような姿勢をとらせておいて、次々と撲殺した。竹の根元の部分やクワが凶器だが一撃が失敗すると短刀の類をノドや腹に突き立てた。小雨が降り続き、暗くなってゆくなかで、流れ作業の撲殺はどんどん進行した。静まり返った空気をふるわせて、クワなどを打ちおろすにぶい音、「アヤー」といううめき声、ときにはアヨーイ(痛い)という叫び声も聞こえる。」

こうした生々しい証言と記録が残されている。

クメール・ルージュが崩壊したあとに、現在の首相、フン・セン氏が国を安定させた。現在は、政権を奪って、三五年近くになる。最初の選挙では敗北したのにも関わらず、高圧的に奪いとったという信じがたい歴史をもつ。

カオスと呼ぶのにふさわしいこのカンボジアに、一九九二年、日本はPKO、国連平和維持活動を派遣した。偶然にすぎないが、この年に私は生まれている。

公正な選挙にするべく各国からおくられたこの部隊は、なんとか無事任務を終えたように思われているが、日本人にも犠牲者が出ている。

民間警察として派遣された高田晴行さん、国連ボランティアの中田厚仁さん。

ポルポト派は、選挙協力を拒否しており、様々な外国人を標的に、命を奪っていった。彼らの必死な活動を知れば知るほど、その無念さが伝わってくる。

日本とカンボジアは、古くから親交のある国なのだ。

 

さて、いまさらながら、「こんなにも偉そうにムキになっているお前はなにものなのだ」という問いに答えたい。

 

 

 

 

第二章 闇との闘い

 

私がカンボジアにたどり着いたワケ

 

二〇一二年、八月。初めてカンボジアに降り立ったときのことは今でも鮮明に覚えている。

服が熱をもち、気がつけばバッグに入れていた水がお湯と化すほどのうだうだした暑さと、各国の色が混じり合い、生きるためにむき出しとなった人間の欲望が、真っ直ぐに伝わってくる匂い。

私はこの国に恋をしてしまったみたいだ。

わずか一週間の渡航であったが、この期間中私は、この国でこの国の人のために働くと決めた。それが私とこの国の出会いであった。

それそう思ってからは早く、ここカンボジアの地で活動する国際NGO宛に連絡し、働かせてほしい旨を伝えた。

そして、翌年二〇一三年、国際NGOのスタッフとして再びこの地を踏んだ。

 

私は昔から国際問題やジャーナリズムに興味があったわけではない。

物心ついたときから父親の影響で野球を始め、中学から大学まで続けた。高校はメジャーリーガーだったプロ野球選手を輩出し、それなりに名が通っていたため、そう和気あいあいとできるはずがなかった。

168センチ52キロという恵まれない体格でも、ほとんど練習を休んだことはないのに、野球部の先輩から「アフリカの貧困家庭にいる子どもみたいだな」と今では笑えない冗談を言われるほど、細さには定評があった。生粋のスポーツ好きであり、楽しいことも好きであり、恋もする。

しかし、エンタメを一生の仕事にしたいかと問われると、答えはNoだ。そもそもそういった質問は自分で言っておいてあれだが、愚問だと思う。

私が1番願っているのは、そういったカテゴリー分けを極力避け、それぞれの分野が交わって、人間の憎しみや哀しみを減らすことである。

エンタメやスポーツなど様々な分野は社会の1つの構成要素である。だから、一人ひとりの個人の関心と社会の意義を近づけたい。そんなことを最近考えているわけだ。

 

私自身、野球のことしか考えていない人間だった。そして中学も高校も補欠だったせいか、私は自信のない人間だった。

こわくて身動きができない、人の顔を伺ってしまう、そんなこともよくあった。そんな青春を過ごしたからなのかは不明だが、縁の下の力持ちの仕事をしている人たちと話すことが好きだ。

だからこそ、取材の中心も縫製工場の労働者たちだったのかもしれない。私たちの着ている洋服の多くは、彼らが懸命に作ったものだから。

「歯車」「ただの駒」のような言葉を耳にして以来、やりきれない怒りを心の奥底に抱えていたことを思い出す。

 

学校教育の中で、友人関係でもめることはなかった。常に誰かに囲まれていた。それはそれで充実した日々であった。だからこそ、私を孤独の世界に連れていってくれる写真や映像に引き込まれていったのかもしれない。

小学生のときに見た、「ハゲワシと少女」という写真に惹かれたことを覚えている。何度もそのページを開いた。その時間は、まるで時が止まったかのように、私をその世界に導いた。のちに、報道の世界で最も権威のあるピューリッツァー賞を取っていたことを知る。そしてその写真を撮ったジャーナリストが、自殺したことも後に知った。

他にも、2003年、イラク戦争が世界で起きていた頃、テレビに出ていた、戦地からリポートする女性を覚えている。山本美香という女性だった。そして彼女が亡くなり、彼女が遺した多くの書籍や映像をむさぼっていたとき、私は気がついたのだった。あのときの私がテレビ越しで見ていた女性だったんだ、と。

当時は、「こんな写真を撮りたい」とか「戦場に行って取材をしたい」などと思った記憶はない。ただ、先人たちが遺してきた作品を鮮明に覚えている、ということだけは紛れもない事実であり、その記憶がきっかけとなり、様々な情報に触れながら、私という人間はつくられていった。しかし、それは社会とつながっておらず、頭の中で解決されていたような気もする。高校を卒業し、大学という新しい生活に飛び込む、そのわくわくしていたタイミングで起きたのが、東日本大震災であった。

 

東日本大震災が変えたもの

 

2011年3月11日午後2時46分。東京の自宅にいた私は大きな揺れを感じ、とっさに飼っていた犬と猫を両手に抱え、ベランダに飛び出した。「ついに関東大震災がきたか」と怯えながら、揺れが収まるのを待った。テレビをつけると、濁流に飲み込まれる街の映像が流れ続けていた。

「大変なことが起きたな」と頭では理解しているのに、当時の僕は、当時の日常にすんなりと戻っていった。親戚や家族もいない。安否確認が必要なわけでもない。

今でも、「どうしてすぐに東北に行かなかったんだ」と自分を責めて続けているわけであるが、その数週間後に、予備校時代にお世話になった先輩が「ボランティアに行かないか」と声をかけてくれた。彼は大学卒業を控え、せっかくなら最後に人のために時間とお金を使いたいということだった。

泊まる場所も食べるものもないことを想定した準備をし、車で現地に入った。

写真や映像などで見ていた世界が目の前に広がっていた。なんとなく行く前から想像はできていた。しかし、野球しかやってこなかった私にとってその光景は言葉で表現できるものではなかった。車の中ではお互い無言を貫く事が多かった。

その光景は、信号機があらぬ方向に曲がり、家がひっくり返っている見たこともないものであったが、私が社会を見ていた景色をがらっと変えることになったのは、被災した人からの、手をにぎりながらされた心からの御礼だった。

ボランティアで、全てが泥に包まれた家を、時間をかけて綺麗にした。そのときに初めて味わった「人の役に立てた」私の喜び。「時間とお金をかけてわざわざなぜ?」と聞かれても、それはやってみないとわからない感情だと思う。

東日本大震災が変えたもの、それは多くの人々の生活、街並み、「起きなければ幸せだった」多くのマイナスが散らばっている。それでも、少しのプラスとして捉えることが許されるのであれば、多くの人が「人のために働く喜び」を感じることができたことなのではないかと思う。それは特に若い世代に言えよう。様々な大学が、様々な団体が、ボランティアに行くツアーなど、東北を考えた事業を立ち上げ、多くの学生が参加した。この「体験」は、どんな書籍よりも写真よりも映像よりも、困難に負けず自分を突き動かす原動力になった。そうした世代が「社会貢献世代」と言われている所以だ。そして、まさに自分自身がその世代を象徴する一人であると認識している。徐々に述べていくが、このときの経験が良くも悪くも「苦しみ」を生むことにつながっているわけである。

 

「現地」は知っている、「現場」は知らない

 

こういうわけで私は、大学でも部活を続けながら、ボランティアのために東北に通いながら、アルバイト先の予備校で高校生たちに、自分の経験や被災地の様子を伝えていた。自分の足で現地に行くことは昔から好きだったし、楽しかった。そんな中、ふつふつと湧き上がってきたのが、「貧困の現場に行きたい」という気持ちであった。確かに今では日本国内での貧困も多く耳にするが、私の中で、貧困と言えば、発展途上国で暮らす人たちだった。そしてぱっと浮かんできたのがカンボジアだった。ここに理由を説明することはできない。

そして初めてカンボジアを訪れたのは、2012年9月。そこで「貧困を感じさせないまぶしい笑顔と、苦難の中でも懸命に生きる子どもたち」という誰もが感じるであろう、途上国にありがちな感想を持ち帰った。そしてそこで私は日本の大学生が働くことを受け入れている国際NGOに出会い、日本に帰国後すぐに、東京にあるオフィスで働きはじめることになった。

大学を休学し、約半年、日本オフィスで勤務後、カンボジアオフィスでの生活が始まった。

 

毎日が刺激的だった。自分の知識の範囲を軽く超えてくる衝撃を受け止める度に、自分が少しずつ大きくなっていった。いや、そう思うようにしていたのかもしれない。

実際、私は、この土地の文化や背景、歴史を知っているようで、何1つ知らなかった。

知っていることといえば、カンボジア料理始め、メキシコ料理、ドイツ料理、イタリアン、フレンチ、とにかく各国から集まった敏腕シェフたちがオープンしたお店をくらいである。今思うと、私は私自身の生活で満足していた。

そして周りのカンボジア人たちを見て、彼らなりに満足した生活をしていた。そこに違和感も何もなかった。

 

「カンボジアの子どもたちを救いたい」「だから小学校を建てたい」そんな人たちがひっきりなしにこの国を訪れる度に、私はそういった人たちを見下すような視線を向けていた。「この国の人たちはそんなこと求めていない」

この国の人たちなりの幸せにノイズを入れる先進国の人々。

そんな意識が頭の中に定着していた私は、すっかりこの国の全てを知っているかのような気分に陥り、そんな自分に酔いしれていた。それは、カンボジアを訪れた人々のガイドをする仕事をしていたことも、カンボジアの社会問題に関わっていたことも影響しているだろう。あの頃の私の頭をがつんと殴ってやりたいと今は思う。

そんな私の中で、少し意識が変化を促す出来事があった私が働いていたNGOで雇用している一人の女の子が亡くなった。まだ10代だっただろうか。

これから先、まだまだ知らなかったこと、もの、人、いろんなことが開かれていく、そんな世界を見ずして、その女の子は、自らの病と闘い、天国へと旅立ってしまった。

日本でも幼くして亡くなる人たちはいるのにも関わらず、私はそのカンボジアという貧しい環境と照らし合わせ、矛先は自分に向かった。

私はここで何をしているんだろうか、と。目の前で、冷たく白くなっていく女の子を前に、ただお線香をあげ手を合わせている自分。その目の前の女の子の命を救うどころか、一度も話したこともなかった。その子の名前も、歳も、好きなことも、嫌いなことも、何1つ知らなかった。

これは言語のせいなのか。答えは明らかにNoだ。鬱々とした気分で、自宅に戻った。その帰り道は何も覚えていない。ただ明らかに、私はそのショックを覚えている。

医者になってあの女の子を救うのか?それとも貧困を脱するために食の問題を変えるのか?それともこの国の教育システムを変えるのか?

私には、何もすることができなかった。正確にいえばできる気がしなかったし、それをやりきるための情熱すら持ち合わせていなかった。

 

世界各地を旅して感じた「つまらなさ」

 

私にできることはなんだろう。まずはできることをやってみよう。それが「伝える」ということだった。いま、この国で、この世界で何が起きているのか、誰も行かないような場所に行ってみたいと思うようになっていった。

 

 

 

 

 

意外にもNGOという社会貢献活動は、デスクワークが多かった。僕はもっと、現場の最前線に立って、そこに息づく人々の声を聴き続けたいと思った。

 

 

およそ1年の海外での滞在を終え、日本に帰国した私は、そこでの体験記を誰かに話すのでもなく、ただなんとなくの毎日を送っていた。自分自身に突きつけられた無能という二文字に対しての攻略方法が見つからず、悪戦葛藤することもできず、ポッカリと心に空いたように、ただただ普通の学校生活を送っていた。

一方で、カンボジアのありのままを伝えるチャンスを探っていた。こんなことを知ってほしい、あんなことを知ってほしい。けれど、どこか「もういいかな。辞めようかな」と思う気持ちがあったのは事実である。なんだかしっくりこないのだ。独りよがりな気がする。伝えて何になるのだ。カンボジアという言葉を出した瞬間、血の気がひくような顔をされることも増えた。きっと、そういった話、例えばボランティアをしてきた話など、もう世間はお腹がいっぱいなのだろう。私たちは私たちの身の回りだけにしか関心などないのだ。

人間なんてそんなものだ。世界のどこかで起きていることなど、自分が体験してでしか楽しむことなどできない。当たり前の話だ。いやいや、なによりも、「誰が」発言をするのか、それによって、人は動いたり、またそうでなかったりする。私などが発言しようとも、誰の心が動くというのだろうか。その頃から、そんな葛藤を抱えながら、「社会に大きな影響を与えられたら」と私はメディアの世界を目指すようになっていった。

 

 

 

 

就職活動のテッパンネタに

 

この頃から私はいわゆる「取材活動」を始めた。といっても見よう見まねでプロの新聞記者の方たちから言わせれば、「そんなものは取材と呼ぶな」などと言われそうなものであった。それでも、カメラを携えて、自分で考えながら、沖縄の県知事選挙など、日本で話題になっている場所を自分の足で歩き始めた。

そうしているうちに、私は就職活動の時期を迎えた。

これまでの経験をふまえ、私の役割とできることを考えたとき、やっぱりマスコミの世界で、国際報道に関わりたい。その想いは明確となっていった。

よく「カンボジアや東北でボランティアをした」という就活生があまりに多いと漏らす人事の方たちの話を聞く度に、そして、実際に、「就活に役に立つし・・・」と話す同級生の話を聞く度に、私はそういうネタづくりではない、心から自分のやりたいことと信じて活動していた。同じような扱いを受けるのは、まっぴらご免だ。けれど、気がつけばこれまでの活動は、私の就職活動のPRネタのテッパンになっていた。

「声なき声を伝えたい」「理不尽な世界を伝えたい」

それは、東京の会社の1部屋の片隅で、ただただ空回りした私の叫び声でしかなかった。世界中どころか、目の前の面接官にすら、伝わることはなかった。

私の就職活動はさんざんだった。全ては縁だから。やっていれば縁はあるよ」と言われ続けたものの、その言葉は杞憂に終わった。今でもマスメディアに入れなかったことは残念だと思う。

けれど、私はばかみたいに真っ直ぐなところだけが取り柄だから、他の会社を受けることもせず、そのまま就職活動を終えた。

「なんと無駄な時間を過ごしてしまったか。いや、これも人生経験、無駄なことなんてないんだ」

という会話を自分とすることも多かったが、さて、私は今後どうするのか、真剣に考えなければいけない。

やっぱり口だけでやりたいことを声高々に語るのではなく、まずはやってみないと始まらない。ということで、「声なき声を」拾いにいこうと決めた。元気を出すためには「就職活動でマスコミに入れなかったから記者の夢を諦めてしまった人たちへ新しい道をつくってやる」というこじつけも必要だった。

今振り返ってみると、ただカンボジアに逃げたかったのかもしれない。

 

フリーで働くことの意味

 

やることが明確になると、なんだか力が湧いてきた。大変失礼な話ではあるが、その頃、メディアに関わる様々な人に会ってきて思ったのは、「今この歳でないとできないことがたくさんある」ということだった。

もし自分が意地でもマスメディアに入った場合、それなりに学びが深く楽しい現場であるからこそ、会社という居心地のよさに私はチャレンジできなくなるかもしれない、と都合よく解釈してみた。

また、これまでのフリージャーナリストは、ある程度経験を積んでから会社を辞めているが、「これまで先人たちが築いたレールにのってたまるか」「私の人生の終着点はジャーナリストとして活躍することではない。ノーベル平和賞をとることだ、はっはっは」とこれもまた都合よく解釈してみた。

現実的な話をすると、もう一つの、そして大きな理由は、正直に「食べていけない」と吐露しているフリーのジャーナリストが多かった。年齢を重ねて独立したときに、お金を考えず、純粋な気持ちで、現場を走り回ることはできるのだろうか。なんだか、Noな気がしてきた。

一通り余計な考えを頭の中でぐるっとさせたあと、「失敗するなら早いほうが良い」という言葉を耳にした。

「今の私なら知らないことを武器として人に話を聞くことができる。私に今できることを丁寧にやっていこう。その失敗は糧になるはず」

そう思えるようになった。

 

 

熱風吹き荒れる「デモ行進」

 

 

初めてプノンペンを訪れたのは国際NGOで働いていたときだったから、今から4年近くも前になる。

当時の印象は世界遺産アンコールワットのある観光地として有名なシェムリアップよりも、人々が忙しそうに動き、街が騒がしいものであった。

一緒にいた友人が到着するなり持っていたiphoneをバイクに乗ったカンボジア人に盗られてしまったこともあり、多少、プノンペンには負のイメージをもっていた。

この滞在で、広い道路を数千人に及ぶ縫製工場の労働者たちが埋め尽くしている様子を初めて目にした。

自らの「生きる」権利を求めた命がけの大行進だった。

女性たちの力強い声は熱気のあるプノンペンの街を飲み込んでいた。

二〇一三年一一月当時の最低賃金は八〇ドルであり、彼女たちはより高い賃金を求め、デモ活動を行っていた。

ちょうどその時期は、カンボジアの総選挙が近づいており、与党と野党の攻防が続いていた。この抗議活動の終着点が、四人以上の命を奪ったとされる、世界のメディアが注目した大事件であったわけだ。日本で知っている人はほとんどいないという面においては、世界的ニュースではなかったのかもしれないとも思うのだが、翌年の二〇一四年一月三日、この国においては時代の転換点になったといっても過言ではないのである。

その大行進の抗議活動を見た私はすぐに危機感を覚え、伝える活動を始めた。などという綺麗な流れになればよかったのだが、なんと私は、そのデモを見て、「日本でも行われているデモの拡大版だな」

と、完全に傍観者として見てしまったのである。

「賃金をあげろ」と叫ぶ女性たち。そこには、人間の力強さと、まさに戦場ではないかと思うほど、空気がぴりぴりと緊迫していた。にも関わらずである。

確かに私は高揚していた。大変失礼な言い方となるが、昔から人間たちが真剣に闘っている姿を見ることに、いつも胸が高鳴る。それは、報道現場に限らず、スポーツの試合でも同じなのだ。

しかし、私はその現場に対して、スポーツの試合と同じように、一試合を見たらそれで満足してしまった。

数日後にまさか数名の命の灯火が消えてしまうことになるとは思いもしなかった。そのプロテスターたちが、どんな背景をもっていたのか知ろうとしてなかった自分を思い出す度に、胸が苦しくなり、恥ずかしさで心が支配される。

その事件とはいったいどんなものだったのだろうか。

 

消えた4人の命の灯火

二〇一四年一月三日の出来事だった。

縫製工場で働く市民と、政府から派遣された軍隊の争いを終わらせたのは、複数の銃弾であった。

「少なくとも」4人が死んだ。亡くなったのは、22歳から25歳の4人の若い男性であった。

米メディアのニューヨーク・タイムズ紙によると、

「労働者は、岩、棒、自家製の火薬で対抗。警察は銃で群衆に発砲」した。

人々は混乱に陥り、あたりは騒然としていたという。駆け回る人、逃げるために階段を駆け上がり、身を隠す人、まさにカオスであった。

政権与党に操られた警察と軍隊は、容赦なく市民たちを地獄へと追いやった。

野党は労働者たちに、声をあげさせた。「君たちならできる」と。

一部市民を熱狂させる野党のリーダーたちは、与党へ何度も何度も襲いかかる。目的はもちろん政権奪取。与党と野党による、様々なアジェンダの政治利用によって、起きた事件といっても過言ではない。

その後、遺族関係者による刑事告訴が行われたが、政府と密接な関係にある裁判所や警察官はこの事件を認めるはずがなかった。

この事件については、国内メディアはじめ、イギリスBBC、アメリカニューヨーク・タイムズ、timeやロイター通信などの海外メディア、国際人権団体アムネスティなども報じ、批判した。

カンボジア内務省は、「いかなる死傷者もなしに平和的に行われた」と声明を発表。混乱が収まるまで、抗議行動や集会は禁止され、他にも国益に悪影響を及ぼすものを違法行為とするとした。

カンボジアのフン・セン首相は、このデモに対し、「野党が国を不安定化させるものである」と発言し、警察や軍隊の行動を称賛している。政治活動家も次々と逮捕される一方、発砲した軍や警察の人間は一切逮捕されない。それがこの国の秩序を表していると言えるだろう。

 

 

 

死亡者数に数えられなかった少年

 

私があえて、死亡者を「少なくとも」4人と書いたのは理由がある。本来なら5人と数えてしまっていいかもしれない。

二〇一七年一月、いまだ骨が見つからない少年の父親による悲しみの声が現地紙に届けられた。その一部を紹介したい。

「スバイリエン州で生まれたケム。ソファットは、16歳の労働者だった。

プノンペンで最低160ドルの賃金を要求する二〇一四年の抗議に参加した。

政府によると、警察が『暴動勢力』(市民)に発砲した時、4人の抗議者が殺され、40人以上が負傷しました。しかし、彼の体は決して見つからなかった。そしてその少年の父親はこう語った。

『私の息子を本当に撃って殺した人を教えてほしい』。

父親は、息子がいる可能性のある場所を求め、全国を探し回った。『ある情報を元に、遺体が運ばれ、焼かれたとされる山に行きましたが、息子の骨はわかりませんでした。私は子供がいつか戻ってくると思っていました。しかし、息子の友人から、息子が胸に撃たれて車に乗っているのを見たという話を聞いて、私は息子が死んだことを認識し始めました』」。

16歳だった息子の存在は、なかったことになってしまった。なぜ彼は、「消され」なくてはならなかったのか。政府にとって不都合な真実はなんだったのだろうか。

民主主義でもなければ、社会主義とも言えないこの国で、市民の権利を求める声が上がってきたのは、これまでの歴史では考える事のできないことであった。

なぜか。声をあげれば自らの命を差し出すような、そんな教育を身をもって受けてきたからである。しかし、今もなお引き継がれてはいるものの、アラブの春と同様、SNSの発達や、若い世代が徐々に力をつけてきたことにより、二〇一三年、夏、これまで、与党一党独裁圧勝で終わっていたこの国で、最大野党に多くの票が投じられた。20〜30代の若者たちが、「変化」を求めた結果だった。

しかし、その結果によって与党のあせりを生み、この国の事態は混迷を極めている。先ほどの消された少年もその一例に過ぎない。真実は、一部の、そしてまた一部のみぞ知る。

どこか過去の歴史と同じ道を歩む、いや、歴史を塗り替えるような、そんな危機感を日々抱くようになったわけである。これが、ポスト北朝鮮と呼ばれる所以なのか・・・。

 

 

事件現場で出会った「日本」

 

これだけの事件が起きて、その現場に行かないわけにはいかない。私は、事件が起きた当時の場所を尋ね歩くともに、そこの労働者たちの様子を伺い、さらには、当時その場所にいた人たちへの詳細なインタビューを重ねることにした。

事件が起きたその現場は、首都・プノンペン市内に位置しているものの、中心部からバイクを走らせ、およそ1時間。

カンボジア人の台所、カナディア市場に隣接し、産業用トラックが行き来する4号線と呼ばれるその道にある。カナディア団地と呼ばれる産業地帯は、アディダス、プーマ、H&Mヘンネス&モーリッツを含む西洋ブランドの衣服を作る数十の工場の本拠地であった。

「まさかこの場所で」と、当時の事件に想いを馳せようにも、その想像が難しいほどまでの静けさと、変わらぬ日常をおくる労働者たちの顔が垣間見えた。

 

朝の7時半頃到着すると、どこの工場でももうすでに仕事が始まっていた。バイクは整然と並び、これまでどこの工場にも共通した、頑丈な壁と、ガードマンに守られたそのセキュリティが、ただただ連続しており、あるのは、市場で働く人たちが、その道を行き来する姿のみである。

プノンペン市内にあるとはいえど、少し離れており、私は目測を見誤り、7時前には到着しようと、6時45分頃、宿を出たのだが、あまりの渋滞につかまってしまい、結局1時間近く時間を要し、労働者をお迎えすることができなかった。これが第一回目の訪問である。

林立した工場の中には、日本の会社も一件だけ見受けることができたが、あとは全て中国の工場であったと思う。

併設された客のいないレストランは全て中華のレストランであった。歩くと往復して45分ほどの奥行きに広がる産業地帯は、労働者たち、そしてその家族が住むことのできる、連なった小さな一部屋も含んでおり、多くの人々の生活がそこにはあった。

バイクで一帯を走っていると、取り壊されかけた1つの工場を見つけたので、近くにバイクをとめ、誰もいない廃墟となった、ただただ広い工場内をくまなく見学することにした。

服を作る過程がはっきりとわかる痕跡があちらこちらに残されている。服に着色を施す染めの部屋、化学薬品の有毒性が書かれた注意書きや種類などが、壁にそのまま貼られている。

避難場所や、救急車、警察など、インフラや生活に関わる基本的な施設への連絡先なども、きちんと壁に貼られている。

歩きながら何か様々な書類や衣類の切れ端などが落ちた床に目をやると、その1つには、誰もが知る某ブランドのタグが大量に落ちており、改めてここであの服が作られていることをはっきりと認識するとともに、そこに記されているそのブランドの日本支店だと思われる住所「渋谷区・・・」の文字もはっきりと見ることができた。カンボジアで渋谷区という慣れ親しんだ文字を見ることに世界がつながっている不思議な気分がした。

開かれた工場の反対側の出口のドアから出てみると、わずかなスキマをへて、活発に衣類を作り続ける工場が音を奏でている。ヘドロかなにかで覆われている足元を若干の嘔吐感をもよおしながら、なんとか進んでいくと、隣の工場の内部が見える。

「ばれたら殺されるかも?」

と完全に不審者である私の心はどきどきしながらも、もっと中を見てみたいと興味が抑えられず、奥へ進んでいくと、なんとそこには小さな一部屋に、マスクをしながら服の染の工程をする2人が見えた。

今度こそ、この人たちに、工場のスキマ、さらには窓からこっそりと顔を出す私の顔が見られる恐怖を感じ、一度、その窓の奥に通り過ぎたものの、どうしても写真に収めたいというさらに私の中の天使やら悪魔やらが出てきて、その欲望は収まることなく、バックの中に手をのばした。

こっそりとカメラを構える。シャッターを切る音が、これまでにないほど、耳、そして胸に響く。

「頼む。後ろを振り向かないでくれ」

と神頼みをしながら、数枚シャッターを切り、写真を確認することなく、その場を足早に去った。一度落ち着いたあと、さらにそれを超える胸の高鳴りを引き起こすことになった。

ボロボロの天井を目にしながら、さらに奥に進むと、二階へと続く階段があった。ボロボロの天井の残像が目に残っている。どきっとしながらここもまた好奇心が勝利し、1段1段、頼りにならない手すりを頼りに、慎重に一歩ずつ足を上に、前に、運ぶ。

その先には、オフィスと思われる部屋がいくつかあり、血痕なのか、染色のあとなのか、染色にしては見当違いの場所にある、謎の痕を見つけるその先には、さらにまた壁に貼られた書類がある。

スタッフやオーナーたち用の書類かもしれないと胸が高鳴ると同時に、階段の先にある、そこのワンフロアーは、数分前に見たその天井たちの様子とマッチし、その場でたちすくんでしまった。

そのフロアには他にも数多くのブランドタグの残りが積まれており、手元にある一眼レフの望遠レンズでなんとかその文字を切り取れないかと試みたものの、さすがに認識することはできない。

さて、どうする自分。

一呼吸おいたあと、「きっと、当たり前のことしか書いていないはずだ。これまでの取材において、小さな意味をなさないであろうその蜜たちにおびき寄せられて、底が抜け自らの命を引き換えにするほどばかなことはない。もっと大事なものがあるはずだ」

と私は登ってきた階段を下ったその数秒後、私は蜜に吸い寄せられてしまった。

天井を確認した。フロアを確認した。

「誰か入ったあとがある」

おそるおそる、できるだけフロアの端を通りながら、命がけの取材を始めたわけである。

壁に貼られた書類を写真に収め、散乱しているブランドのタグやカタログ、商品を確認できた。果たしてこの行動に意味があったかと問われると、はっきりとYESとは答えられない。

工場の外に脱出したときの安堵感で、私の身体は全身汗でびっしょりだった。そこに記されていた書類たちもごくごく普通のものであった。しいていえば、きちんと労働者に配慮している内容であった。

一度、近くのカフェで1時間ほど過ごしたあと、再度その産業一帯に戻り、昼の休憩をとる労働者を待った。11時半、もしくは12時に午前が終わり、一時間休憩というのが基本であった。

労働者は、だいたいジーンズやチノパンツに、Tシャツ、そして日焼け防止にカーディガンと、日傘をさし、併設された市場で食事をしたり、市場を買ったものを木陰で輪になって食べたり、自らもってきたお弁当(といっても、白米がメインである)を食べ、横になりながらスマートフォンを眺める人もいれば、労働者同士で会話を楽しむ人たちもいた。

その途中に驚かされたのは、物乞いと呼べば想像しやすいいだろうか、道端で、帽子を置き、お金を乞うている人がちらほら見受けられるとともに、労働者たちが、あまりに多い割合、10打数3安打くらいの確率で、彼らにお金を差し出しているのだ。

彼らだって、決して満足するほどの給料をもらっているわけではないのに、その人間的な心の優しさとその文化に、私は胸が熱くなってしまったのである。

その姿を見てある光景を思い出した。

東京、六本木で、物を乞う人に、背の高い金髪の欧米女性が、歩くスピードを変えないまま、そっと持っていたペットボトルの水を置いていったのだ。

あの衝撃を頭に浮かべ、私も同じように、ちょうど数分前に買ったペットボトルの水を、その人の前に置いた。

もう1つ印象的だったのは、以前、日系の工場を見せてもらったときもそうであったが、日本の工場の従業員のみ、お揃いのポロシャツを着ていたことである。

オーナーや政府は、労働者の生産性の低さを理由に、労働者の賃金を上げることに、反対、批判し続けるのではなく、いかに労働者たちの生産をあげるかに注力するべきだという声が上がっているが、全くもってその通りであると共感したのであるが、その一環として、日本の工場の多くは、チームワークや会社への所属意識を向上させるという文化を導入している。

それは一部、日本の考え方を押し付けている、その文化は正しくないと考える一部の層もいるわけだが、それによって生産性が上がっているのであれば、私は良いのではないだろうかと工場地帯を歩きながらぐるぐると脳内が動いていたわけである。

無論、何か行動には、メリットもあれば、デメリットもあるわけで、日本式であれ、中国式であれ、一部導入するべき点はするべきであり、また、労働者の声を拾い上げて、カンボジア人向けに応用すればいい話ではあるが、それもまたそう簡単なことではあるまい。彼ら彼女らだって、自由に自らの思考を工場に対して発言できる心の余裕はない。

 

夕方17時頃になると、ちらほら、労働者たちが仕事を終え、工場から出てくきた。18時頃になると、工場で働く人数に対する数で考えると、そう多くはないが、ある程度まとまった人数の労働者たちの姿が見えた。

その多くは、夜ご飯の食材の調達だろうか、市場で買い物をしていた。

ごくごく普通の、人間らしい、日常生活の姿に、なんとなくほっとし、その様子をカメラに収めたくなり、彼女たちとともに市場を回った。

市場はこれまで何度も来ているので、もう私にとっても当たり前の風景と化してしまったが、初めてきたときは、牛、豚、鳥、魚、その姿かたちがはっきりとわかり、そして目の前でさばかれていく、血の海と肉塊で埋め尽くされた状況に、私たちが目の前の「これら」によって活かされていることを突きつけられる。

しかし正直、それよりもこの生々しい臭いに吐き気がとまらず、我先にと市場から出てしまった記憶がある。

買い物を終え、それぞれの家に戻っていく。中には、隣接された寮なのか定かではないが、その生活空間に戻っていった。ちなみにその家をのぞいたが、一部屋しかなく、皆、外にたまった壺の水で全身を洗い流していた。その一方で、外から見える工場内を覗くと、まだ働いている人の様子も見える。

これまで、100人近くの労働者たちに聞いた「だいたい残業は2時間くらい」と答えたことを思い浮かべ、時刻は18時、だいたいあと1時間ほどかなと予想した。

多くの労働者たちが帰路に着き始めたため、私も自宅に戻ることにした。業務時間が改善されたからなのだろうか。それとも、元々、そんなに残業はなかったのだろうか。いや、そんなはずはない。あれだけ日本でカンボジアの労働事情に関する報告書を読み込んできたから間違いはないはず。

そんなことをぐるぐると頭の中で考えながら、ある1人の男性が私に語ってくれた言葉が頭から離れない。

「私はカナディア団地での様子を、見ていました。当たり前ですが、縫製工場で働く女性たちが異様なまでに抗議していたように見えていたかもしれません。もちろん、抗議していた人もいたかもしれない。けれど、私が直接見て、聞いたのは、労働者たちはデモ活動をするよりも、そのまま働き続けたかったんです。なぜなら、彼女たちは仕事の最中で、仕事をしなければ、給料が減ってしまうからです。

ではどうなっていたかというと、外部の人間、おそらく労働組合や、野党の政治家にそそのかされた人たちでしょう、そういった人たちが、工場の門を皆で押し倒して、労働者に向かって「仕事を中止しろ」と叫んだ。安全のために労働者たちも外に出ざるを得ない状況になっていたのです。

警察や軍隊は、私たち工場の人間たちワーカーも含めて守ってくれた側だと思います。140ドルと決まって1番不満だったのは当事者ではなく、周りの人ではなかったでしょうか」。私の頭は激しく混乱していた。

 

 

国会議員を殴打

 

二〇一六年の一月、新年あけてまもなく私はカンボジアにいた。

今回の渡航はやけに肩に力が入っていた。

「カンボジアの人たちは俺が救ってやる!」

そんな気概をもっていた。新年の祝いなど私にとって関係なかった。

再び、プノンペンを訪れることになったその経緯をまず示したい。

 

横田増生氏のユニクロ潜入記事が出る1年以上前、二〇一六年のカンボジア取材に時計の針を戻す。実はここまで縫製工場を取材したいとつらつら暑苦しいほどの想いを書いてきたわけであるが、目的はそれだけではなかった。

これまでも、なんとなくカンボジアという国に身をおいていたが、やはり、現地を知るのと、現場を知るのとでは全く違う。簡単に言えば、その国で生活をすることと、その国を知ろうとして、問題とされる場所を歩き、人々にテーマを持って尋ね引き出すことは、理解の深さや広さが全く違う。

実はこれまで、フン・セン首相の政治を含めたカンボジアで起きている現実に対して、なんとなく理解はしていたものの、まさに「なんとなく」でしかなかった。

私は日本に戻ってから、メディアの仕事をしていた。そこで、ゲストとしてきた外交に精通している政治家が、カンボジアの政治家と交流した際の危機的状況について外交の観点から話していた。その映像に、私の大好きなカンボジア人たちの姿はなかった。

気が狂ったように、憎しみの全てをぶつけるように国会議員をとことん踏みつけ、殴打していた。その映像の背景を調べていけばいくほど、事態は深刻であるとともに、「ああ、私はこれまで何をやっていたんだろう」と落胆した。

すぐに、カンボジアに「行こう」と決めた。自分の血が騒ぐのがわかった。今このタイミングしかない。傍からは、シラけた目で見られていたかもしれない。それだけ、ベクトルがどこに向いているかわからない、けれどまっすぐな正義感で溢れていた。

落胆していたのには理由がある。カンボジア人のこんな姿、私は現地に住み、現地の大学に通っていたのに、自分で深く現場に入り込んだこともなかった。何度も言うが、「なんとなく」という眼鏡をかけて社会を見ていた。

覚えているのは、たった一度の大行進だけ。あとは常に隣り合わせにあるスラム街、ゴミ山、売春、そんな問題について、少しばかり知っていただけで、政治がどう絡んでいたかなど、私には想像もつかなかった。

国際協力という大義をふりかざしていた自分を思い出す。「結局理不尽な問題を解決したいなんてうそっぱちだったんだ・・・」

いつも通り、落ち込む。

表面しか見ていなかった自分に対する怒りと、悔しさを晴らすためにリベンジしたかった。この葛藤も渡航を決めた大きな理由の1つであった。

 

耳障り良い「国際協力」

 

 

 

初めてのジャーナリズム

 

プノンペン空港に到着すると、過去の自分と照らし合わせ、「少しだけど、大きくなったよ」と、久しぶりのカンボジアの空気を吸い込みながら、そっと目を閉じて心のなかでつぶやいた。久しぶりの挨拶を済まして、すぐに市内へ向かった。

これが、初めての本格的な取材であった。迷いはなかった。私は、他の誰もが認めなくても、「私はジャーナリストである」と思い込むようにした。ジャーナリストと呼ぶに値しない人間であり、実績もないことは、自分が1番わかっている。

けれど私は取材者に徹すると決めた。そうでないと、結局これまでと同じ「表面をかする」ことを繰り返しそうだったから。

これまでと圧倒的に違う重要なことは、「伝える」ことを念頭においているかどうかだ。

いろんな場所に足を運んで、知らなかった景色を見ることなら、旅人でもできる。実際に私は過去、世界を旅する「バックパッカー」であったが、当時の姿勢では、多くの国に足を運んだものの、深く知れたことはあまりに少なかった。

旅人なのか、取材者なのかは、はっきりいって自分の心の持ちようでしかないがめげずに粘っこくいくしかない。カンボジアの空港に降り立ち、そのまま宿へ向かった。

さて、私はいったい何から始めたらいいのか。根拠のない自信から私はこの土地にやってきたものの、いざその場にたつと、突然頭が真っ白になってしまった。

先述の通りだが、これまでの拠点はシェムリアップだった。その小さな街に、人のつてはたくさんあるものの、プノンペンには0に等しかった。

観光がメインのこの街は、各国から集まった社会起業家たちがプロデュースするカンボジアらしさを入れながらおしゃれにつくられた商品を販売するおみやげショップも多かった。

ガイドを多く必要とするため、日本語が話せるカンボジア人も多く、カンボジアの住人だった頃は、彼らがいつも頼りだった。貧乏学生だった私に特別に料金を安くしてくれたり、代わりに交渉してくれたりした。しかし、プノンペンは首都だ。政治が動き、市民が動くのは、基本的に中央の街だ。NGOの属性も異なってくる。

現場に行きたくても、どうしたらよいのかわからない。日本で読んできたレポートにあった人権侵害の状況にいきなり出くわすはずはない。さらに、自分なりの真実を見つけるためには、問題の着地点を見つけ、その解にあった材料を探しても意味がないし、第一、私はそんなことに興味がない。現地に住み込み、一般の人ではいけない場所に行き、実際に現地の人を雇い、ビジネスを回している人たちに聞くことこそ、私は現在のカンボジアの姿が浮かび上がってくるのではないか。

私はまず、現地在住の日本人の声を聞くことにした。つてがあるのは、日本から派遣され、行政としてカンボジアに3年間赴任していたとにかく顔の広い大野晴夫さんから紹介くださった、カンボジア在住の日本人。

彼らを頼りながら、ひたすらパソコンと向き合い、調査を始めた。日本語で書かれた情報も少なからずあったが、どうしても限界があった。あまり英語が得意でないが、情報のためなら仕方ないと、英語と向き合った。前もって日本である程度調べてはいたものの、次々と疑問が湧き出てくるのだ。だからこそ、現場に来る意味があるのだが。

まずは、生活のインフラを整えるため、バイクを借りなければならない。カンボジアは超バイク社会、日中はクラクションが鳴り止むことはなく、最初は頭がおかしくなりそうだったが、そのうち、自分もクラクションを鳴らすようになっていた。

バイクがなければ、本来は「モトドップ」や「トゥクトゥク」と呼ばれる、そこらじゅうにいるバイクタクシーを捕まえ、値段交渉し、目的地まで運んでもらう。

この作業は、熱帯のこの国ならなおさら疲弊してしまう。正直、移動だけでへとへと、休まないと、パソコンに向き合う作業すらとまってしまう。私は何度か死にかけたこともあるが、やめようとは思わない。

早速「バイクをレンタルしよう!」

と張り切っていったものの、なんとそのバイク屋が数日間休み。さすがにまた困ってしまった。とりあえず、以前から検討をつけていたある場所に向かうか・・・。

 

カンボジアの国営放送へ

 

バイクタクシーに乗り、向かった先はカンボジアの国営放送であるTVK、そして隣接しているTVKを管轄する情報省である。何かしらそこにいけば誰かに出会って手がかりを貰えるだろう。今考えると何とも無謀なことだが、意外とこれがうまくいった。着いた先には、日本のテレビ局ほど大きくはないが、中継車や電波塔が経った建物と情報省、日本で言う総務省があった。しかし、人が全くいない。また危険な匂いがしてきた。

いたのは、昼間から裸でバレーボールで遊ぶおじさんたちだけだ。いつもカンボジアのこの人たちはどうやって生活しているのか、甚だ疑問であるがそれはおいておこう。

日本のお金によってつくられたテレビ局なのか、日本の国旗が刻まれた記念碑があった。嬉しいような、悲しいような。あくまで、このテレビ局は、国が管理している、言い換えれば、国にとって便利な情報を流して、国民を洗脳させるためのメディアである。すると一人の男性がきたので、話しかけてみた。

「私は日本から来ました。取材に行けるような情報はありませんか?」。

馬鹿な質問だが、これしか聞くことがなかったのである。ところが、彼はいろいろ話をしてくれた。

「Kyodo(共同通信)なら近くにあるよね、あとは情報省の大臣を紹介しようか?」。

いきなり大臣?そんなことあるのか?高ぶる気持ちを抑えながら一時間ほど立ち話をした。そのほとんどは雑談とも呼べないものだったが。

私に彼は名刺をくれた。そして明日、9時にまたおいで、といって彼はその場をあとにした。なんと。早速の大物である。何を聞こうか、何を話そうか。日本にいる知人に話を聞いてもらいながらその日を終えた。

翌日、わくわくしながら向かうと、テレビ局の受付の人に、中を案内してもらった。やはり、日本はこのテレビ局の技術協力を行っていて、敷地内には日本の国旗とカンボジアの国旗が並べられた石像が置かれている。だからここまで私に親切にしてくれるのか、いやそれともいつもの通りの親切かはわからなかったが、私は幸先の良いスタートに気持ちが高ぶっていた。

そこで働く人たちが私を気にかけてくれる。

「どこからきたの?」「日本?アジノモト!」

そんな会話を楽しんでいるうちに、少しばかり私の中で不安がよぎりはじめた。待ち合わせをした彼は1時間待っても2時間待ってもいっこうに来ないのである。近くにいた同僚らしき人に声をかけるとすぐに彼に電話をかけてくれた。すると彼は仕事で今日ここにはこれなくなったらしい。

おい。まじかよ。メールくらいくれよ!と思ったものの、そこはぐっと我慢して、帰宅後彼にメールを入れておいた。

「他の日はどう?」

彼からメールが届いた。

「ごめん、やっぱり大臣は紹介できない」

カンボジアではよくあることだというのはわかっていたものの、少しばかり期待していた自分がいた。

「くそう。振り出しに戻ってしまった」と、少しばかりの苛立ちを抑え、

「わかった、ありがとう!またなにかあったらよろしくね」とメールを返した。

 

バイクショップで活動家と出会う

 

いきなり困り果てていた私を、この先に何度も助けてくれることになる、

現地の社会問題に精通する活動家のスペシャリストに出会ったのは、まさかの翌日にいったレンタルバイクショップだった。

手がかりもなくなり、予定もなくなった私はようやく、日本人が経営しているというレンタルバイク屋に向かった。そこにいたのはスタッフのハック。この男が私のカンボジア取材に花を咲かせた。

バイクの使い方やルールを教えてくれながら、何気ない会話をしていたとき、私がふと「カンボジアのいろんな社会問題を取材しているんだけど」というと、彼の目の色がはっきりと変わった。

なぜ彼がレンタルバイク屋で働いているか聞くのはやめておいたが、とにかく彼の口から次々と、「この国の問題は・・・」という熱い演説が始まった。「この問題が俺は許せなくて。友人たちと一緒に活動していて。」

私はとにかく耳を傾けた。

そして、こちらから何も言わずとも、彼は「おれと一緒にこい」と、様々な場所、そして仲間の活動家たちと暮らす家にも招待してくれた。「お金かからないからここに泊まりなよ」と言われたが、少しばかり家が遠かったので丁重にお断りしたが、その心意気が、何の頼りもなくばかみたいに一人で飛び出した私の胸にはじーんとくるものがあった。

彼はその日、僕の携帯電話から、おいしくて安いレストランまで、業務時間内にも関わらず、私をバイクの後ろに乗せ、連れて行ってくれた。

彼らの存在は心強かった。

 

労働組合リーダーの死

 

ある日突然、そのハック含め活動家グループからメッセージが届いた。

「まさ、今日何している?」

これから、式典があるらしい。

「今から行く!」

二つ返事で、現場に向かった。

何の実績もない、明らかに若い僕に、仲間として親切に受け入れてくれた活動家たちがいる。彼らの志は熱い。この国の問題について、何が問題なのか、僕に伝えたくて伝えてくてどんどんヒートアップしてくる。何から何まで親切にしてくれる。よりいっそう、僕はこの国のいまを伝えたい。そう思うようになっていた。

式典には大勢の市民たちが集まり、手を合わせ、ある人物の死に思いを馳せていた。

彼の名前は、チェアビチェア。彼は労働組合のリーダーとして、多くの労働者に寄り添い、活動を続けていた。当時の最低賃金は、45ドルだった。

しかし、彼は、政府軍の糾弾に倒れた。

なぜ、彼は死んだのか。いや、なぜ彼は殺されたのか。その真相は、権力によってもみ消されたまま、もう15年が過ぎようとしている。

「貧困だけど、笑顔が素敵な国、カンボジア」

それだけが本来の姿ではない。

誰もが政府の批判を口にすることさえ許されない、当時のポルポト政権の恐怖政治と似た匂いが、時が経つにつれ、ぷんぷんしてくる。

「抵抗とは、地面に堕ちることだ」

そんなメッセージを、ビチェアの死によって受け取ったと話す市民もいる。

この事件は、縫製業やファッション・アパレル業を語る上で、そしてカンボジアにおける歴史を語る上で、現在とまっすぐにつながっている。

1人の死が、この大きな業界の何を意味するというのだろうか。正直に打ち明けると、私自身、この事件を知ったとき、この国の一部の問題であろうとたかをくくっていたのだが。

当時の様子を少しばかり振り返ってみたい。

 

二〇〇四年一月二二日。労働組合のリーダーだったチェアビチェアは死んだ。

彼は縫製工場労働者の労働環境改善と権利を守るため、多くの労働者の信頼をうけながら、活動を続けていた。

現地紙、カンボジア・デイリー紙の報道によると、犯人は2人組で、1人がバイクの運転手、もう1人が銃撃者である。銃撃者はコンビニへと向かった。置いてあった新聞を見たあと、ズボンからピストルを取り、3頭の弾丸を発射。頭部、胸部、左腕を撃ち抜き、ビチェアは凶弾に倒れた。

2人はすぐに逮捕され、懲役20年の判決を受けた。しかし、有罪判決を受けた2人は、不当な逮捕であったことを強調し、9年間の法廷闘争の後、最高裁判所によって無罪となった。

友人や家族、その周辺の人々は、彼がなぜ殺害されたのかを知っていると答えている。

内務省は、真犯人を見つけるための調査はまだ続いていると述べているが、政府にとって都合の人物を消したと考えられるのに、いかにして政府が管轄している省庁が見つけ出すというのだろうか。政府の支持率が下がり、世論の反発が収まりきらなくなったタイミングで、真犯人を見つけたと、政府の手柄にし、世論をおさめるつもりだろうと話す人もいる。

ビチェアを殺害した人物は誰だったのか。

この一連の騒動は、カンボジアのみならず、各国のメディアも注目した。

 

「多くの人は、殺人は政治的に動機づけられており、権力者と強く結びついていると信じている。 しかし、この事件で正義を見出す可能性は、非常に厳しいものとなるだろう」。これはカタールを拠点とする中東の有名メディア、アルジャジーラのレポートだ。

無罪となった2人は、「閉鎖されたドアの向こうで警察は2人を殴打し、事件の犯人だと言うように導いた」と言われている。

(二〇一三年一〇月三日)

 

市民たちは今でも、政府に対し、事件の真相と真犯人の捜索を求めている。

それは、カンボジアで働く全ての労働者にとって、切っても切り離すことのできないことであるのだ。

不当に逮捕された2人に対する生活の補償はなく、失われた時間は帰ってこない。彼らの叫び声は、これまで通りなかったことになってしまった。

改めて考える。ビチェアの死が意味するものとは何なのか。それは35年に及ぶフン・セン首相の独裁政治がいかに危険で横暴なものであるか、一言では言い表すことはできないほどの権力の乱用である。軍、警察、裁判所がいったいとなったこの国の首相に、怖いものは何もない。

この事件は、氷山の一角に過ぎない。人々の溢れる涙が、この大地には流れている。そして、その涙は、穴のあいたバケツのように、これからも流れていくのだろうか。

 

ジャーナリストとは何なのか

 

家に帰り、プノンペンの町並みを見ながらふつふつと湧き上がる感情と対話する。

独裁者とはこういうものなのだろうか。

やったことをやっていないとし、探ろうとするものをさらに殺す。これが、政治活動の一環だから、仕方ないのか?

こうして、今まで世界ではどの国も政権を築いてきた。これが世の常なのか?

私だって、これまで、彼らの死が、政府によるものだと決定的な事実を掴んだわけではない。これをつかむのがジャーナリストの仕事なのだろう。きっと、私は弱いのだ。自らの能力の低さと、心の弱さが、はっきりと露呈していた。

私にはその事実を積み重ねるほどのが力がない。そう、毎日、ここにいると、突きつけられる。

この国の議員や力関係も深く理解できていなければ、理解するための現地語も、日常会話に少し毛の生えたものだ。与党と野党、市民、人権団体と警察、軍隊、複雑に混じり合った彼らの衝突を見て、伝える、ただそれだけ。

私には、市民の声を拾うことしかできない。それも、現地のメディアがやればいい。カンボジアで販売されている紙の新聞を買うことが日課だったことがそれを表している。

その新聞に書かれた情報を見ながら、今なにが起きていて、どこで何が起こりそうなのか、また、新聞には記事を書いた人のメールアドレスがのっているので、気になった記事には連絡をとってみた。活動家たちと国際人権団体に足を運んでみた。

こうして徐々に現地に根付き始めた。プノンペンにいる、カンボジア人始め、日本人の知り合いも増えた。しかし、

「僕がやりたかったことは、こういった活動だったのだろうか」

という葛藤が頭をよぎる。

 

なぜ、私がカンボジアを取材する必要があるのか。カンボジアにもあふれるほどの問題が複雑な理由で絡み合っており、その全てを理解するのは到底難しい。カンボジア国内だけの話ではなく、メコン川や、ベトナム、タイとの衝突など、外交的な1面もある。なのに、「どうして言語もわからない、どう考えても浅い情報しか手に入れることのできない人間が、海外のこの国の労働問題を取材するんだろう。こんなことやっても、何の取材にもならないじゃないか。表面上の問題を追いかけてお前は誰を守りたいんだ」と葛藤する。

意気揚々と取材してくるとお金かけてまで飛び出したのに、カッコイイことばかり言って、「取材ごっこ」ができればそれで満足か。何度も問いかける。

僕はこの愛する国のために何ができるんだろう。よっぽど、様々な問題を抱える日本で取材したほうがよいのではないか。

涙がとまらない。ベランダから、プノンペンの街を見下ろしながら、泣きじゃくった。そのあとの答えはいつもシンプルな場所に行き着く。

「誰が1番弱い立場なのか。取材するべき人間は、当事者たちだ」

一刻を争う問題な気がする。闘い続ける彼らを少しでもサポートできたら。彼らにとっては、その殺害が政府によるものだろうと、そうでないことであろうと、そこまで重要なことではない。もう明白なのだ。彼らが政府への「不信」を積み重ねていることは。

恐怖によって、声が出せなくなり、結局は、目の前の生活をおとなしくおくる、それがこれまでの彼らの生き方からの脱却を願う。過去のポルポト以前の状況とは、まったくもって違う精神状態なのである。

ハックのような活動家たちに車の中で聞いたことがある。

「政府から殺される危険があるのに怖くないの?」

「当たり前じゃないか。怖くないよ。俺たちがやるしかない」

何を言っているの?というような表情をしながら、そう答えてくれた。彼らの勇ましさ、国を変えたいという人間としての強さを感じながら、私だって負けられないという思いを強くする。

 

 

 

 

プレスパスで命を守る

 

こうした取材では、市民と警察、軍隊の暴力による衝突が頻繁に起き、血を流す人が高い可能性で起こる。自分もこんぼうのような鈍器、そして銃で撃たれる可能性もあるのか・・・と何度不安になったことか。

そのときにハックがさらった言った。

「まさ、プレスパスはもっていないのかい?

もっていないと殺される危険性があるから申請しておいで」

まさか。シリアのような戦場ではないのに、もうここもある意味で戦場なんだなと一気に身が引き締まった。この国だけでなく、ジャーナリストも市民も格好の餌食だ。「政府が報じられたくない場所にこそ、市民の小さな声が埋まっている」と聞いたことがある。その言葉を思い出し、

「どこであろうと、伝えるという行為には命の危険がまとうのだと。それでもやる意義を感じたならばお前はやり続けろ」と暗に言われている気がした。

きっと、私もこわいのだ。もし、現地ではなく、日本がこのような状況で、言葉もきちんと通じながら、好きなように取材できる場合だったら本当に私は権力に踏み込めるのか?殺されるかもしれないという恐怖と闘いながら、自らの使命を全うできるのか?

そんな問いが常に自分につきまとう。

わずかながら生きてきたこれまでの人生でそれもまたわずかながら見てきた、聞いてきた、経験してきたものたちがあるから、私にだってどうしても許せないことはある。では、いざ、そのために、命をかけてでも報道しろといわれたら?

やっぱりこわい。それでもこの仕事を続けたい。いつか怖くないと思うその転換点は来るのだろうか。

知識も経験もないフリータージャーナリストが唯一、活かせるとすれば、警戒心なく、包み隠さず、利害関係なく、話してくれるところだ。人の心の奥に入り込むことが私にはできる。これを活かさないわけにはいかない。そう改めて思えたのがプレスパスの管轄である情報省でのことだった。

 

早速、翌日、私は、プレスパスを申請しに、メディアを統括している懐かしの情報省へ足を運んだ。今度は自分のバイクで場所もばっちりわかる。いいぞいいぞ。カンボジアに到着した初日に困りはてうろついていた自分が懐かしい。

「紆余曲折あったけれども、着実に一歩ずつ進んでいるぞ」

あのときの自分に声をかける。

情報省に到着し、建物の中に入ると、あまりに小さい部屋で3人が働いていた。おそるおそる入り、「press pass」と小さな声で話しかけると、「OK!!ここに座って」と案内してもらった。このときの安堵感は忘れない。パスさえあれば、なんとか今までの取材範囲が広がるとわくわくしていたのだ。そしてなにより、初めてとるプレスパス、自分がなんだかジャーナリストの一員になったような気がした。

「浮かれるな、何も結果が出ていないのに」と突っ込まれそうだが、まずは形から。野球だって、グローブとバットとスパイクがなければ、プレーできない。それと同じだ。ということにしておこう。

さて、写真や書類の一式を提出、サインして、おわり。

「3日後には出来ていると思うから、取りにきてね。できたらいちおう電話するね!」と声をかけられ、笑顔で「ありがとう!」と言い放ち、その場をあとにした。

 

その日、自宅でリラックスしていると覚えのない番号から電話がかかってきた。「あれ、だれだろう」。電話に出てみると女性の声が。

「ハロー」

「ハロー、ごめん、どちらさま」

「えー、今日の、情報省の・・・」

「おー!どうしたの?もうできたの?はやいねー!」

「いや・・・。そうじゃなくて・・・。ちょっと、電話したかったの」

デートの誘いだった。

予想外の展開だった。とは、正直言って思わない。実は少し予測していた。部屋に入り、手続きをしている最中、なんだかカンボジア人同士で異様な盛り上がりをしていた。だいたい日本人、特に若い人はカンボジア人でモテる傾向がある。肌が白いというのも1つの理由である。

カンボジアは肌が白ければ白いほどかわいいという文化があるようで、中には、肌を白くするために、顔に白い粉をぬりすぎて、失礼を承知で言えば、おばけみたいな、「今日はハロウィンですか?」と問いかけたくなる人もそこらじゅうで見かける。

しかしそうはいっても、モテるのは悪い気分ではないが、彼らは非常に積極的な人が多い傾向があり、度が過ぎてうんざりすることもよくあった。

毎日、朝の4時から電話が鳴り止まないことだってあった。さすがにそのときは電話の音に対して恐怖症になり、電話が鳴る度、どきっとしてしまった。

さて、そんな話はおいといて、私が大丈夫なのかと思ったことは、省庁に提出した個人情報を、一人のスタッフが私用に電話をかけてしまうほどの個人情報の取扱の脆弱さである。ばれたら、クビになるのだろうか。そう考えるのは日本人である私だけだろうか。いい気分だったので、そこは抗議することはなかったが、もし悪用されたらと思うと怖い。せっかく好意をもってくれたのだから、省庁に近づくチャンスだ。仲良くなっておけば何か困ったときに助けてくれるはず。その後も何度か電話がかかってきたので、時間を制限しながら、にこやかに対応した。

そうか、取材って、こうすればいいのか。このときに、私は私なりの取材方法の1つを見つけたのである。

 

その後、プレス・パスを受け取るまで、非常に長い時間を要した。

「何曜日に取りに来て」と言われ、取りにいった日は、情報省の建物の中に誰もいないことも1度や2度ではない。

どういうことだ・・・。情報省で困っていると、一人のカンボジア人がきた。

名前はビン。今日は情報省は休みだという。さて、困った・・・。帰るか・・・。

彼はカンボジアのジャーナリストだという。

「おお!カンボジアにもジャーナリストはいるんだ!」

と思うとともに、非常に心強い存在だ。

彼とは、今でも非常に仲良くしている。それは向こうにも思惑があった。よくわからないが「仕事のパートナーになってほしい」とのことだった。ただ仲良くなることは僕にとっても願ってもないことだった。

それにしても私はよくモテる。男から。彼からも、ひっきりなしに電話がかかってくる。日本に帰った後も、

「いつ、カンボジアに帰ってくるの?元気?」

といった連絡がやまない。

彼、もう40を超えているおっさんだぞ。頼むぜ・・・。

しかし、彼は現地のことをよく知っている。その後オフィスにも案内してくれた。2人で食事にも行った。また、今度、縫製工場など、いろいろな場所を案内してくれるという。いい仲間も見つけたことに胸が高鳴る。こうやって、桃太郎も仲間を探して鬼を倒しに行くんだな。楽しい。プレスパスの女性への怒りも忘れていた。

 

その後、私がまた情報省に出向いた日、、部屋には鍵がしまっており、電話をかけてきた女性に電話をすると、

「いま、実家に帰っていて田舎だから戻れない」と言い出す始末。

その時点でどうしようもなくなり、電話をきった。近くにいた人に訪ね、もう少ししたら管理人がくるらしいという情報を手に入れたものの、結局3時間も待たされたあげく、プレスパスをゲットした。

おそろしい国カンボジア。前の仕事で一緒に働いていたカンボジア人は、朝7時半からの仕事開始に間に合って働いていたぞ。

大丈夫か、役人たち・・・。

 

 

垣間見えるクメール・ルージュのカケラ

 

ある日、現地在住日本人の会社の社員であるカンボジア人女性の実家に遊びにいくことになった。彼女は日本語が堪能な女の子だった。彼女の自宅は、プノンペンからおよそ車で1時間ほど、田んぼの広がる街にあった。

日本にあるような家を想像してはいけない。壁はなくぼ吹き抜けの状態であるものの、二階建てで作りがしっかりしているので、下に落ちることはない、と信じながら、二階に、寝ている間に蚊に襲われないよう蚊帳をはり、掛け布団にくるまって寝泊まりした。家に着くと、家族が出迎えてくれた。そしてカンボジア流おもてなしが始まった。

とにかく、いろんなご飯がでてくる。

「食べなさい、食べなさい」と、言語が通じなくても、にこにこしながら料理をすすめてくる。もちろん、食事のお伴は「アンコールビール」だ。

ねっとりと肌にまとわりついてくるこの暑さに、冷えたビールはたまらないのだ。ここもカンボジア流、ビールに氷を入れて飲む。実に違和感がない。だんだんと兄弟たちが帰ってくる。4人の兄弟と両親が実家に揃った。とにかく明るい家庭だった。

話がすすむと、お父さんが昔の話を始めた。お父さんのお父さんはポルポト派によって殺害されているという事実を。にこにこしていたお父さんのふとした瞬間の悲しげな顔が、頭から離れない。急にご飯とビールの味がわからなくなってきた。詳細な事実まで話すことはなかったが、その事実は、私の人生にずしんとのしかかってきた。

ポルポトの独裁により起きたクメール・ルージュとはいったいなんだったのか。

ポル・ポト大虐殺は、これまでも、そしてこれからも、語り継がれる謎に溢れた歴史的出来事である、これが意外にも1976年から1979年と最近の出来事であるのだ。私は現在24歳であるが、自分の祖父や祖母がポルポト政権時代に犠牲になった世代なのである。

正直な話、私だって、これまで大虐殺が起きたという事実に胸が痛めてきたものの、どうも自分のことのように悲しいわけではなかった。

その出来事が起きた土地を回ってきたのにも関わらず、どうもどこか遠い世界のような話に感じてしまうわけである。しかし、いきなりふと日常で出てきた、深い悲しみの上になりたった重たい言葉たちは、私の胸に衝撃を残した。「なぜ、彼らは殺されなければならなかったのだろうか」

夜のカンボジアの風は、優しく私の肌をぬけていく。田んぼ以外の何もないこの場所をただただ見渡しながら、考える。誰も彼の横暴をとめることはできなかったのだ。まさか、そんなことが起きているなど思わず、世界の国が、100万人とも300万人とも言われる人の命を無視し続けたのだ。その責任をどこかに転嫁する気分にもなれなかった。

通訳の仕事をする25歳の若い男性が心境を語ってくれたことがある。

「昔の話は、家族から当たり前のように聞いています。収容所など観光地化された場所に行くのもいいですが、生の声を、小さいときから聞いて育ってきているのです。

10代の子どもが大人たちを殺す。子どもにお酒を飲まして、判断ができない状態にさせてから殺害を命じていたとも聞きました。

一方で、良かった点もあったそうです。それは、皆平等ということです。ルールをきちんと守りました。だから、物を盗むとか、レイプをするとかは、ほとんどおこらなかったといいます。

ポルポトの時代、薬もないし、食事も、食事と呼べるものではなかったので、私の兄弟は7人いたのですが、4人亡くなってしまいました。私が生まれる前の話ですので、会ったこともありません。会ってみたいなあと、たまに思います」

一方若い女性は、

「現在の首相、フン・センさんは、過去の歴史をあまり口にしない。だから、ポルポトのことも知らないというより、興味のない人が多い」と話す。

その女性は、ポルポト後に起きた内戦の様子を語ってくれた。

 

クメール・ルージュ後の世界

 

一九九七年、カンボジアは内戦が起きた。その原因をつくったのが、現首相であるフン・セン氏である。

彼は選挙の結果をも自らの手で変え、連立政権を樹立、その後、連立の相手であった政権のトップが外遊中にクーデターを起こし、内戦となった。ニューヨーク・タイムズによると、国会議員であったサム・レンシー氏による抗議に対する手榴弾攻撃により、少なくとも16人死亡した。

その結果、フン・セン首相は、与党第一党になり、現在まで政権を運営している。

また、二〇一三年七月の選挙では、そのサム・レンシー氏を筆頭とした野党は、与党が不規則でいっぱいであると強く批判した。にも関わらず、フン・セン首相は勝利を主張した。

こういった経緯がある中で、フン・セン首相への抗議行動は、これまではあまり起こらなかった。いや、正確に言えば、起こせなくなっていた。暴力で対抗してくる政府の横暴に国民は恐怖に震え上がっていたからだ。

一九九七年、内戦の真っ只中を生きた女性へのインタビューを読んでみてほしい。

 

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私が小学校2年生のときでした。今日は朝7時から学校でまとめテストがあるので、朝の6時半に歩いて学校に向かい、着いたらすぐに勉強を始めました。

しばらくたって、何人かの警察が入ってきて、「早く家に帰りなさい」と教室にいた私たち生徒と先生に叫びました。なぜだかよくわかりませんでしたが、彼らの言われたとおりに私たちは学校を出ました。家についたのは朝の8時頃だったと思います。家族もなぜ帰ってきたの?というような顔をしていました。

そこから3日間ほど、地獄のような日々でした。外を見たら、家の前に、人の死体が10体ほど並んでいるのです。爆弾のような何かがふってくるのです。

私たちの家は川沿いにあったのですが、家の上を銃弾のような何かが超えていきました。その「音」は耳から離れることはありませんでした。理由もわからず、家の前で死んでいた人たちは、その場に穴をほって埋めました。

あとになって知りました。裕福な家の人やビジネスマン、政府関係者は、皆すでに安全な場所に避難していたこと。私たちには、私たちの地域には、外へのつながりが何もありませんでした。だから、私たちの周りの人たちは、たくさん死にました。今でも鮮明に覚えています。

私の姉は、家の周りにたくさんあるうちの1つの縫製工場で働いていました。その頃は、アメリカやヨーロッパ、シンガポールと中国が主な取引先で、日本との取引はなかったそうです。

爆弾は、工場にもたくさん落ちました。何人死んだかわかりません。姉は幸い家に帰ってきました。しかし、姉の友達は死にました。姉が言うには、その工場では姉だけが生き残ったそうです。

みんな家が壊され、例え生き残ったとしても、お金も服も何もありませんでした。そうすると、みんな物を盗むようになりました。しかし、その人たちも皆死にました。誰もいない工場のドアを開け、商品である服などを盗もうとしたとき、そこには、踏むと爆発してしまう物体があったからです。そしてそれは全てベトナム製のものでした。フン・センさんがベトナムから尻に敷かれているルーツなのではないでしょうか。

もう、誰がいい人で、誰が悪い人なのか、わかりませんでした。

ある日、私の家に、兵士たちがきました。

母は「殺さないでください。子どもを育てる人がいなくなってしまいます。」

と叫んでいたことを覚えています。フン・センさん側の兵士でした。彼らもお金がなかったのです。家の中の人を殺しながら、金銭や金銭になるものを奪っていくことは知っていました。

私たちは、2歳の弟、4歳の妹、6歳の私、8歳の兄、そして父と母で暮らしていました。幸い、母は、ネックレスだけを差し出し、命だけは免れることができました。

ご飯をまともに食べられる日はありませんでした。お金を得るのも毎日大変でした。生き残った豚を売ったりして、なんとか生活していました。しかし、周りに人もあまりいないので、売る人も見つかりませんでした。

当時は、お米1キロ300リエル、今は4000リエル。ガソリンも1リットル1200、今は4000リエルほどでした。

私は、これらの日々がなんだったのか、その当時は知りませんでした。その後、10歳くらいのとき、私は母に聞きました。母は、「国王シハヌークの子供とフン・センのけんかだよ」それから私はいろいろと知るようになりました。

あのときのことは、もう思い出したくありません。こわくて、こわくて、たまりません。だから、わたしは、今のカンボジアで、フン・センさんから違う人に、トップが変わってほしいと願っています。

来年、二〇一八年の総選挙がこわいです。フン・センさんが、来年の総選挙で負けたら戦争をしますと言っているのをFacebookで見ました。その投稿は一気に拡散されていました。

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この歴史を背負った国で、これから私ができることってなんだろう。

いつもながら、私は自分に問う。この問いをやめたら、同じ過ちを繰り返す気がしてならない。世界のどこかで、誰かの叫び声に、一切の関心をもたないことほど、その現場の人間にとって苦しいことはない。誰からも心配されず、ただただなかったことになる人生。そんなものあっていいのだろうか。

目の前には、片手にビールを持ち、真っ黒な肌に、白い歯を見せるお父さんがいる。彼らの、今を生きるその人生は、無意識的に刻まれたものなのかもしれない。いや、それほど、あの歴史は残虐で、直視したら心が壊れてしまうものなのかもしれない。

私なんかに、到底わかるはずがないのだ。それでも、僕は、寄り添えるはずのない彼らの気持ちに一歩ずつ、一歩ずつ、歩兵のように進んでいきたいと気を新たにした。

歴史を学ぶ意味ってなんだろう。学校で年号の丸暗記をしていたけれど、今の僕は、自分の目で見て、感じて、そこからその歴史を学んでいけばいいんだよ、と今の若い人には伝えてみたい。

 

 

常識と非常識

 

夜の盃を交わしたあと、眠りについた。翌日、朝、5時、牛や鳥の鳴き声とともに目を覚ます。日中の暑さでくたくたになった体を起こすにはあまりに早すぎる時間だったが、なんとか起き上がった。

昨夜、友人にも「一緒に5時に起きて!」

と無理をいってしまったのだからしょうがない。

 

私にはもう一つ、ここにきた目的があった。縫製工場で働く女性たちへの取材である。これまで、カンボジアの歴史を振り返りながら、現在の社会の動きを取材してきた。その国の経済を支えるのが、80万人を超える、縫製工場の労働者なのである。

首都・プノンペンとアンコールワットのある観光客に人気な街、シェムリアップを結ぶ大きな一本道に面した家から、半分意識を失いながら、その道路に顔を覗かせた。「いたいた。ちょっと話を聞きに行っていい?」と労働者が出勤するために待つバス停に向かう。

「縫製工場で働いているんだよね?」

「うん」

「お仕事はどう?楽しい?」

「・・・」

「こんなに朝早くから仕事をして、しかも残業もあると聞いたけど大変じゃない?」

「んー・・・慣れたから・・・。」

 

一言二言話したところで大型トラックが、女性たちを迎えにきた。彼女らは、トラックの荷台に少なくとも20人以上が乗り、工場に向かっていった。その姿は、大変失礼な言い方であるが、どうもそれが、カンボジアでよくある光景、鳥や牛、豚が大量に運ばれていくあの姿と、何度自分の頭の中で打ち消そうとも、出てきてしまうのである。

きっとそれは、私の中で、このトラックが、死とつながっていることを知っているからだろう。どれだけこのトラックに乗ることが危険であるのか、認識しているからだろう。

少しそのことについて、述べてみたい。

二〇一五年、交通事故死者数は、日本が2万9083人に1人に対し、カンボジアは8106人に1人。そして死亡事故発生率は日本に比べて4.5倍にものぼる。

衣服労働者が二〇一六年に五六〇九件の交通事故に関与し、 このうち、103人の労働者が死亡、七四四六人が負傷したと言われている。そのうち、労働者を運ぶトラックは、二六一六件(47%)が発生したとしている。

カンボジアにおいての移動手段はバイクが主流であり、私も、二度の事故にも負けず、行動範囲がぐっと広がるバイクは必須であった。

以前ほどは見かけなくなったが、道を走っていればもちろん事故の現場に出くわすことも多い。無論、日本でも交通事故は起きるから、カンボジアだから、というつもりはないが、それでもバイク同士の接触や道の交通渋滞に悩まされることも多い。

付け足しておくと、カンボジアでは当たり前の話、50CC以下のバイクの運転に免許は必要ない。あちこちで、身体の小さな10歳にも満たないであろう少年少女が、2人のりしてバイクを運転する光景を見かける。

私は、工場でいくら最低賃金を引き上げてほしいと訴えたり、労働環境の改善を訴える前に、交通事故で命を落としてしまったら、元も子もないではないかと思うようになった。現地の詳しい人に聞くしかない。

 

外国人が数多く在住し、高級エリアといわれているプノンペン・ボンケンコンエリアにある清潔感溢れるカフェで、その女性とお会いすることになった。

カンボジア政府承認の国際NGOとして、救急車など緊急車両の輸送や救急医療システム構築を行う、サイドバイサイドインターナショナル(SISB)を二〇〇四年に立ち上げた佐々木明子さんだ。

初対面にも関わらず、佐々木さんは、交通事故がなぜこんなにも多発するのか。死亡者数がなぜこんなにも多いのか。彼女が知っていることや様々なデータを丁寧に私に教えてくれた。

これは単純に、多くの人が乗ることによる体重超過によって、運転手の運転操作が困難になる。そして何より問題なのは、この国では交通事故が起きてからの対応は、「助かる命も助からない」というのである。

その様子は、人間とは思えないほどの対応だった。

「止血をするという発想がないのです。事故が起きても、ただ人々が集まりその場で立ち尽くしているだけ」

交通事故で負傷した人々は呻き声をあげ助けを求めるが、周りの人々は、ただ、「救急車が来るから待て」と叫ぶのみ。もちろん救急車がすぐ来る保証はない。適切な処置をすることなく、ただ時が過ぎるのを待つ。

救急車の数が足りないために、他の事故によって遠方へ救急車が出動すると、その救急車が戻るのを待たなければならないという現実もある。

「そしてもう1つ、民間救急車によって「貧困」重傷者が置き去りになることもあるんです」

今ではだいぶ数が減ってきたというが、民間救急車は有料であるため、お金のない貧しい村の人々だとわかると、負傷者を搬送しない。けが人が目の前にいるのに、だ。搬送されなかった貧しい人々は、その後国立病院の救急隊に連絡し、次の救急車が来るのを待ち続ける。そのタイムラグによって死亡するケースも頻発する。

他にも、民間救急車が有料であることの弊害はある。貧しい人たちはお金を払うことをためらい、救急車を呼ぼうとしない。また、呼んだとしてもあまりに高い料金を請求され、借金をしてしまう。

そんなカンボジアにも、きっちりと道路交通法という法律がある。その道路交通法が、二〇一五年一月九日、改定された。

 

・ヘルメット着用義務違反 5,000リエル(約135円)(運転者)

・無免許運転 6日間~1ヶ月間の拘留又は罰金10万(約2800円)~80万(約22,400円)リエル(改正前:25,000(約700円)~200,000(約5600円) リエル)

  • 酒酔い運転1ヶ月間~6ヶ月間の拘留又は 80万(22,400円)~4,00万(112,000円)リエル(改正前:6日間~6ヶ月間の拘留又は 2万5千(約700円)~1,00万 リエル(28,000円))
  • 運転中における携帯電話通話禁止違反 3千リエル(約85円)

 

出典:在カンボジア日本国大使館「安全情報(3月)」

 

道路交通法改正前だと、約700円さえ払えば、無免許運転や酒酔い運転の違反がなかったことになる。もちろん日本のように違反切符を切られることもない。

この料金設定で、法律違反を減らすことが難しいのは明らかだった。
そこで、政府は法律を改正したのだが、(酒酔い運転がいきなり約11万2000円に上がることもおかしな話ではある)。この法律がきちんと適用されているかといえば、答えはNoだ。

警察にいくらかのお金をその場で支払えばすぐに解放される(カンボジア人は約400円、日本人は約550円払っていた)。支払われたお金は警察のポケットに入る。

公務員は給料が低く、この行為は仕方のないことだという。何より驚いたのが、どのカンボジア人に聞いても、「それも彼らの仕事の一部だから」といった、肯定的なというべきか、当然皆知っていること、それに対して皆もお金を払っているというものとしているのである。

世界トップクラスの汚職国カンボジアなのである。二〇一四年の汚職認識指数は調査対象となった175ヶ国のうち156ヶ国で、北朝鮮、アフガニスタン、ビルマの次にアジア太平洋地域ではランクインした。この調査は開発銀行が行っている。

在住の日本人などの外国人は、このおかしさになんとなく笑ってしまい、許してしまう。私だってそうだ。笑いのネタにもなるし、バックパッカーにとっても、いいネタができる。けれど、この小さな小さな積み重ねが、当たり前となっていくこの出来事が、大きな大きな問題を引き起こしそうな気がしてならないが。

 

付け足しておくが、現地紙によると、法律が改正されたあとのほうが交通事故の死亡者の数が増えているということである。なんという皮肉だろうか。

警察と呼ぶに値するかわからない、彼らの働く姿勢と、政府による怠慢がもたらすもの、それは現地人の倫理といっては押し付けがましいだろうか、こんな話もある。「縫製労働者輸送バスの運転手の9割が無免許」これはカンボジアの内務省が発表したデータである。

心配しないでほしいのは、一般的な観光客用のバス運転手は全員とまでは言わないまでも、運転免許を持っている。しかし、スピードの出しすぎや、飲酒運転に関しては、「していないとは言えない」と、現地の人は口をそろえる。

また工場に勤めるある男性スタッフから聞いたこんな話もある。「バイク通勤している女の子が、道端にバイクをとめていたら、労働者を乗せたトラックが運転を誤り、そこにいた女の子を轢き殺してしまった」

私が愕然とした。あまりにはっきりとその光景が頭に浮かんで、吐き気すらもよおしてしまった。さらに彼は続ける。

「しかし、通勤に関しては、私たちの管轄ではありません。そこまで会社の責任にされてしまうのはおかしな話です。契約していませんし、そこは彼女たちの自由ですから」

あんなに危ないのだから、そこも保障するような工場があれば、彼らの命も守られるのでは?とも思うのだが、さすがにいくつものバスを、何百人に出すわけにもいかないし、それぞれ家の方向が違うわけで、さすがにそこまで求めるのは酷であろうか。また日本と比べてしまうのであるが、日本の会社でも、社員に、交通費は出したとしても、通勤方法を指定したり、バスを完備するなど、あまりに現実とかけ離れている話である。近所をまわる労働者を載せるトラックは、1ヶ月10ドルほどを支払っているとのことである。

 

 

うーん。カンボジア政府の発表したことを、そのまま私のルポとして綴るわけにはいかない。それはわかっている。この無免許運転に関しても、関係各所では疑問の声が上がっている。けれど、カンボジアの人ですらわからないことを、私が答えを決めつけることは、これまで通り、到底不可能なのである。

だから、こうして人から聞き、当事者に聞いたことを、そのまま記すしかない。そもそも、この道路交通法が改正されたことも、前の交通法の内容がどんなことであったかも、知っている人はほとんどいなかった。あまりに複雑に絡み合っているこの国の交通状況に、ため息ばかりが出てしまう。

話がそれてしまったが、縫製工場で働くその女の子に手をふって私たちは見送った。彼女は今も元気に働いているだろうか。

 

プノンペンの街は、いつもと変わらない風景がある。人々は忙しそうに、ときにはけだるそうに生活している。私は、そんなカンボジアに別れを告げるときがきた。日本へのフライトが待っていた。

私の気持ちは、清々しかった。苦しかったけれど、少しばかり、またこの国と親友になれた気がした。これからも一生付き合っていけるような親友に。その地に住む人々は、私の帰りなど待っていない。彼らは彼らの日常があって、満足している。そこに私がきたところで、少しばかりの水が与えられるだけだ。

けれど、何かあったら、頼れる人がいる。そして私も頼りたい人がいる。そんな関係をつくることで、この国の行く末がどうなろうとも、私はきっとこの国に小さな忘れ物をし続けるだろう。そして、その忘れ物を取りに通い続けるだろう。

「またくるよ」

飛行機の窓からカンボジアの大地に声をかけた。

 

 

 

伝える意味を考える

 

私は日本での日常に戻っていった。もうお金がなかった。それでもふつふつとこれを形にしなければ。と、思い始めたらもう止まらなかった。書きたかったからいろんな編集部に連絡してみた。それでも、返事はこない。例え会ったしても、それは取り扱えない。と。それはそうだろう。何の無名の人から送られてきた所で・・・。自分も逆の立場を経験したことはあるが、面倒だったもん。絶対的に正しいものなんてない。

僕がスタートラインに立つには、まず現場で何が起きているか知ることしかできない。それが事実なのだから。僕に面白い企画とか売れる企画だとか、そんなこと考えたって、始まらない。

ましてや、カンボジアの話だ。日本にとって、いや世界にとって、ある一国の途上国の話だ。日本国民おろかメディアにすら見向きもされないだろう。それだけニュースの価値はないテーマをいかに伝えるか。ここが私のテーマかもしれない。

けれど、今の自分は、これこそ、価値のある情報だと思っている。私が、情報を知って、はっとしたみたいに、同じように思ってくれる人もいるかもしれない。そのたった数%の可能性を信じて、書き続けるしかない。私のこの費やした時間が無駄でないことを証明したい。何より、私がこの場所に足を運んで、情報を拾い集めなければ、亡くなっていったカンボジアの人々のことに思いを寄せる日本人なんていないままだろう。言い換えれば、私たちの日本での生活とは切っても切り離せない人々だ。日本人に知ってもらわなければ、気が済まない。

ここまでの払ったお金を数えるのはやめた。これからの払うお金も数えない。取材費が出なくとも、意地でも通う。僕にはそんな能力もなければ、そんなものは必要なかった。食って行けなければプロじゃない。そんなこと言われても僕には関係ない。そこに伝えたいことがあるのだ。伝わるように伝える、こう伝えなければいけないなんて考えて、行動に移せないなら、まず行動にうつせばいいじゃないか。そう自分に言い聞かせた。

きっと、敏腕な編集者が伝わるようにしてくれる。僕にはそんな能力なんてない。プロにはプロに任せよう。誰よりもこの問題をルポとして書きたい。この思いだけはきっと日本中のどこの誰よりも勝っている。だからもう、やるしかない。行くしかない。お金がなくなれば、ご飯を食べなければいい話だ。実家に戻れば食わせてくれる。恥ずかしい・・・?この問題を伝えるのとどっちが大事なんだ?

お金がなくなれば、クラウドファンディングだってある。実際にやるやらないは別にして、そういうものがあるという心のセーフティネットがあるだけでよかった。

きっとこれを書き上げたら違う世界が待っている。そう考えたら、元気が湧いてきた。ちょうどいい。予定もすっからかんだ。今やるしかない。

何より、誰かに話したときの、「知らなかった」という表情が、何より私のパワーになった。その最たる例が元内閣総理大臣、鳩山由紀夫首相に取材したときだ。

彼は、首相時代、カンボジアで33年首相を務め、独裁を強めているフン・セン氏とお会いしている。対談テーマは沖縄についてだったが、ちょっとしたアイスブレイクで話題として出すと、当時のことを話してくれた。

「彼は(フン・セン氏)は、子どもがたくさんいて、そのうちのひとりを私が日本に招待してあげたんです。そうしたら、非常に喜んでいて、その姿は一人のお父さんという様子でした」

その話の途中に、実はですね・・・。と、カンボジアの現状を伝えたところ、鳩山さんは非常に驚いた様子で、

「全く知らなかった。えー。そうなんですかー。もしかしたらフン・セン首相は家族だけの愛情なのかもしれないね」」

と声をもらしていた。

この様子を見て、ここまで反応してくれた方はいなかった。政治や国際情勢に精通していた方だったというのもあるかもしれない。

その反応は今でも忘れならい。今の僕の1つの原動力でもある。

伝わる人には伝わる。書く意味はある。

 

 

二〇一六年、大晦日の三が日で、帰省しているにも関わらず、朝から晩まで、カフェに入り浸り、何百ページに及ぶ英語の資料や記事を読み込んだ。英語があまり得意ではない私の相棒はもちろん、グーグル翻訳で大意を掴み、そのあと大事なところは自分の力で直接英文にあたる。ただひたすらそれを繰り返していた。

周りの就活仲間たちの、マスコミで研修や配属、記事の執筆などで、わくわくした生活を送っている様子が、SNSを通じて伝わってくる。

毎日カフェにこもり、収入もなく、じわじわとコーヒー一杯がお財布から消えていくのが、「なにをやっているんだ」という自分との毎日の戦いだった。

しかし、どうもしっくりこない。頭がごちゃごちゃしてきた。私は何をどう伝え、誰にどうなってもらいたいのか。自分の書いていた文章が独りよがりな文章にしか見えなくなってきた。

カンボジアのことを伝える?日本でカンボジアに興味を持つ人なんて、ほんの一部の人ではないのか。どの部分をどう伝えればいいのか、常に不安がつきまとう。

正直、これまでの渡航でも納得した取材はできていなかった。ひまを持て余すこともあった。なぜなら、すでに述べた通り、情報をどう得て、どう取材していけばよいのか、私が伝えたいことに対して、簡単に納得のいく情報など入るはずなかった。

そんなときに、ユニクロのカンボジア下請け工場を批判する週刊文春の記事とユニクロによるサプライチェーンのオープンのニュースが入ってきた。

これは私の頭の中を整理するものでもあった。

「縫製工場に絞った取材をしよう!」

そうひらめいた。

これまでは縫製工場の労働者にももちろん取材をしていたが、カンボジア全般のことをキャッチしていた。

日本ですらそう簡単に取材などできないのに、あまりに幅広いテーマで追いかけすぎていた。そう認識した途端、急に身体からアドレナリンが出るのを感じた。ユニクロのサプライチェーンがオープンになった1ヶ月後の、2017年4月、再度、これまでの取材の追加や裏取り含め、カンボジアに出発することにしたのである。

これまでの取材で、1つの側面ではあるが、カンボジアで起きている事実がわかっていただけたと思う。

しかし、今回敢行しようと企む「縫製工場の実態を探る取材」は、これまででわかった通り、ある程度は政治と絡んでいるものの、実感としては、また別の問題であると思っていた。

しかし、想像していた以上に、労働者と政治の距離が近い。2017年6月に行われた地方選挙の投票率が90%を超えたことからもわかるだろう。

それは、政権与党、フン・セン首相がおよそ70万人の労働者の票を見過ごせないからであろうと推測する。何度も強調しておくが、縫製業は格好のテーマなのである。

政治のアジェンダとして扱い、支持率アップをはかるために利用しているということだ。「最低賃金をあげます」と言えば、労働者たちは票を入れてくれるに違いない。そう考えているのはもちろん野党もそうである。

 

今回の取材ではっきりしたことがある。「ブラックなカンボジア下請け工場」として入ってくる情報は、空振りだったということだ。いや、ファールチップくらいにしておこう。

労働搾取という問題は、政権を倒すために、様々な人間たちの私利私欲によって動いているという現実があった。1つのテーマから広がりを見せ、新しい発見、気付きがある。これだから現場に行くことはやめられない。

 

 

 

 

 

 

 

第三章 下請け工場とはなんだったのか

ーカンボジア縫製工場における問題を検証するー

 

 

入国禁止のトラウマ

 

カンボジアへと発つ前、私は成田空港でびくびくしていた。「もしカンボジアにたどり着けなかったらどうしよう」

そう思ったのには理由があった。

実は、前回の渡航の半年後、もう一度カンボジアに足を踏み入れる予定であった。中東・アフリカ地域を除いて、様々な大陸をこの足で歩いてきた私にとって、ビザの取得なども含めて、もう慣れたものであった。カンボジアはアライバルビザと言われる、空港に着いたらすぐにその場で、ビザをとることができる。もちろん他の国も、その国によって同様のシステムはある。この油断が私の足元をすくった。

成田空港に着いた途端、空港スタッフが曇った顔をして、何度も何度も機械とのやりとりを繰り返していた。他のベテランスタッフも集まり、結果言い渡されたのは「お客様は飛行機にお乗りになることができません」

私にとってなんとも形容し難い苦しい通告となった。

理由はシンプルである。「パスポートの残り期間が半年以上なければ、カンボジアに入国することはできない(ビザを取得することができない)」「よってあなた様は、私たちの遵守事項により、飛行機にお乗せすることができません」

というわけだ。

この知られざる事実を叩きつけられた私は、必死にスタッフを説得、「自己責任論」を持ち出したり、カンボジア大使館に電話をしたものの、結局それは覆ることはなかった。

つまり、ビザを前もってとろうと、日本にあるカンボジア大使館で申請していたならばこの事実に気が付き、すぐにパスポートを申請することができたというわけである。

成田空港で、たった一人、放り出された私を見かねてか、それとも私の説得がきいたのかわからないが、経由先の香港までは、のせてもらえることになったのだ。もちろん、その先はNGというのは承知の上で、私は「香港でなら何かしらあっさり入国できるのでは」という淡い期待をもとに、香港へ飛び立った。翌日、香港国際空港で、何も知らないふうを装って、空港チェックインなどをこなしたが、どうもエラーが出てしまう。淡い期待は即座に否定され、私は為す術がなくなってしまったというわけである。

結果的に、タイならビザなしで飛べるぞということを耳にし、私は頻繁に、陸路、おんぼろバスで、カンボジア・タイ間を移動していたため、「さすがにあの国だ。陸路であればいけるだろう」とタイに到着後、カンボジア国境まで、数時間かけてバスで移動したものの、10人以上の怠慢管理人たちは、私の入国に対してNoを突きつけた。自分が悪いとはわかっているものの、彼らの堕落した仕事ぶりと、仕事をせずに、無駄に多い人数で集まり、雑談を繰り返す光景を見て、まさに苛立ちと絶望感に襲われていたのである。

こんな話で時間を費やすつもりはなかったが、ともあれ私は成田空港で、チェックインにとまどうスタッフを見て、どきどきしながらそんな体験をつい話してしまった。任務を完了したそのスタッフは「大丈夫ですよ、安心してくださいね」とにこやかに私に話してくれたが、それならば一発でスムーズに終わらせてくれと思ったのは、ここだけの話である。ぜひ参考にしてほしい。

 

 

縫製工場にアポなしで突撃

 

午前11時を回った頃、プノンペンに着いた私は、早速、その足でバイクをレンタル、ホテルにチェックインしたあと、すぐさまバイクを走らせた。もちろん、そこでのレンタルバイクショップで、ハックとの再会を楽しんだわけである。

これまでの取材は、カンボジア全体を把握することに努めていた。だから、現地で誘いがあればどこでも足を運んだし、この国の歴史を振り返るために、何度もその虐殺に関連のある土地を訪れた。

しかし、今回は明確なテーマをもってきた。

「縫製工場とはなにか」

前回は、各地にある縫製工場を簡単に見て回ったものの、それは、現地の友人に連れて行ってもらったこともあり、私は正確な場所を把握していなかったし、目的もそれとは異なっていた。だからこそ、今回は、目的がはっきりしており、非常にわくわくしていた。やるべきことが見えると、こんなにも行動の指針がたてやすいのか。

しかし、その考えはあっさりと翌日、裏切られてしまった。しかし、意外にも、その「労働」というテーマを取材するだけの気持ちでいた私をいい意味で裏切ってくれたというのも、また事実なのである。

 

前回の取材で、初めて大規模な工場での労働者たちに出会ったとき、その労働者の数に驚いた。私はそこに労働侵害があるという一切の疑いのない眼鏡をかけ、彼女たちを眺めていた。そんな自分に怒りを覚えながらも、日本の報道や世界の人権団体から上がってくる、加速した労働侵害の報告に目を通していたためか、以前よりもさらに色の濃い眼鏡をかけていた。

さて、時を当時に戻そう。バイクを走らせ向かった先は、もちろん、縫製工場だ。まだ何の人脈も、手がかりもない私は、とりあえず突っ込んでみるしかないのだ。どこに工場があったのか全く覚えていなかった私は、現地の人や在住者への聞き取りから始め、そこでなんとなく見えてきたプノンペン市内の工場があるエリアに向かった。

飛行機での移動からなのか、久しぶりのこのカンボジアの気候だからなのか、それとも他の理由からなのか、いきなり1時間以上もバイクを走らせたにも関わらずなかなかたどり着かないその工場地帯に、いきなりのめまい。どうやら体がまだ順応していないようだ。

ここで諦めたらいかんとムチをうちながら、あるかわからないその方角に邁進した。どうしても見つからない、そんな矢先、近くに日本からカンボジアに進出しているリサイクルショップ「sakura」の看板を発見、この辺でそろそろ人に聞いておかないとと店に入り、

「このあたりに工場地帯があるはずなんだが」

と必死な形相で尋ね、返ってきた

「このあたりにはないよ」

という店員3人が口を揃えたその言葉に、私の希望はどこかに羽をつけ瞬時に飛んでいった。バイクに長時間のったことによるおしりの痛さが増した気がする。

少しは調べてくれてもいいのにと思いつつ、もうこの人達に聞いてもだめだと、もう少しだけ進んだら帰ろうと決めた、その数分後、あっさりと工場が見つかった。そしてその先にも、立て続けに見つけることができた。現地の人に聞くのが1番だが、現地の人に聞くのはやめておいたほうがよい、そんな教訓を初日に学びつつ、私の心は前のめっていた。

基本的に、工場の中に、部外者が入れることはない。有名な団体でも、入ることは厳しい。セキュリティのチェックが厳しいのだ。いくらカンボジアといえど、そこは守られている。しかし、私はそれを承知できている。いってみなければ、何が起きるかわからないからである。

早速、その工場に入れるかどうか、セキュリティガードの人に話を持ちかけた。少しやりとりをしながら、持っていたプレス証を見せていると、中からそこで働いているであろうと思われる女性が出てきて、その子にも話すと、意外にもあっさりと工場内の敷地に入ることができた。

しかし、あっさりと外に出ざるを得ない状況になったのも事実である。

高まった胸をおさえる自分に彼女は

「どこの部署をみたい〜?」

と柔らかい笑顔で話しかけてくれる。好きになりそうだ。

と鼻の下をのばしていたら、部屋の窓から、厳しく、渋い顔をした女性が、その彼女に話しかけた。

どうやら、「だめだ。出て行け」

と言っているようだと私は汲み取ってしまった。正解であった。

彼女は「ごめんね」と、非常に申し訳なさそうに謝ってきたので、こちらこそ申し訳ないと胸が苦しくなったものの、その初日のやりとりに、少しばかりの希望と、このカンボジア人の心からの優しさを懐かしみ、改めてこの国が好きであることを再確認した。

後ろから彼女の妹がやってきて、2人で仲良くバイクに乗り、帰っていった。時間は17時過ぎ。今日は残業なしなのだろうか。それとも毎日こんな調子なのだろうか。現場スタッフなのかわからないが、中国人と思われる男の人も、満面の笑みで彼女たちを見送った。姉妹2人の表情も、仕事終わりとは思えないほど明るい。

私がこれまで頭の中に抱えている調査レポートたちが一瞬で裏切られたような光景を初日に迎えたものの、そりゃ、こういう工場もあるよな、と自分の中で、この事実を噛み砕いた。

その後、無数にちらばるその工場たちに、傍から見たら何をしているのだと思われるほどに、直撃し、そして撃沈、その繰り返しであった。毎回、困った表情をされるし、もう話しかけるのもしんどくなってきた。

中に入れたところで、私は何がしたいのだ、見て終わりじゃ何もならないだろう。と、無性に虚しくなりつつあった。それでも、まだ初日だ。まずは、「絶対に入ることができない」「セキュリティがきちんとしている」ということがわかった時点で、合格ではないか。と自分に言い聞かせながら、話しかけたその工場の入り口で、

「わかった、明日の7時半にきて」

という男性の言葉が私の耳に入ってきた。

「よっしゃ」

テンションが上がるのをこらきれないまま、

「じゃあ、明日ね〜!」

と満面の笑みで立ち去る私と、渋い顔をするガードマン。帰り道、バイクを走らせながら、少しばかり希望が繋がった喜びとともに、

「あの人はセキュリティガードだし何の権限もなさそうなのに、本当に入ることができるのか。しかも朝の7時半。いきなり強行スケジュールだな」

と疑いつつも、労働者たちは、毎日この時間なのだ。行ってみるしかないと、宿に着き、すぐに目を閉じた。

朝向かってみると、確かにその男性はいた。クルマやバイクの行き来が非常に激しい慌ただしい朝であった。

工場の前には、屋台が並び、工場で働く女性たちが飲み物や食べ物を買いにくる。そこで見た女性たちは、綺麗な格好をしていることが印象的であった。

鮮やかな黄色のガーディガンをはおり、ピンクと白の混ざったワンピース。プノンペンだからこんなにおしゃれな女性がいるのか?そんな疑問を持ちつつ、その服装に見とれていると、その男性はまた他の女性を連れてきて、用件を説明してくれという。しかし、その説明はあっけなく否定され、許可は出ない。これにて私の初日、そして翌日の工場取材は終わったのである。

工場の周りをうろつくことにした私は、おもったよりも奥行きがあり、老朽化しているとまでは感じない、ごく普通の建物であるように見えた。

結局、その場所で1時間ほど、彼女たちと同じ飲み物、カンボジア特有の練乳の入った甘ったるいコーヒーを飲みながら、その場で待ってはみたものの特に何も起こることはなかった。目の前には数えきることは出来るはずもない無数のハエが、積まれたゴミにたかっていた。

さて、前回と全く同じことになってしまった。早速、どうしたらよいのか路頭に迷ってしまった。ユニクロの工場がどこにあるのか把握しているものの、都心からは非常に離れており、何度も通える距離ではない。通訳をつかまえるなど、きちんとした取材ができる体制が整ってから攻める場所だと決めていた。

そこで、私は原点に立ち戻ることにした。

「現地の人に話を聞く」

 

 

 

工場に詰まった希望と落胆

 

 

朝の6時に、いつもながら重たい身体を起こす。日本では比べ物にならないほど、気候や言語、セキュリティや、交通など、いつもよりストレスと疲労が蓄積し、睡魔がいつもより強い。さらには、腹痛がいつもつきまとい、どこか不調の原因をそこに持っていき、ベッドとはいつもより仲良しになる。それでも、ここにきた理由を考えると、ぱっと目が覚める。

私は現地でブランドを立ち上げた日本人の協力を得て、カンボジアに進出する日系工場の内部に入る許可を得ることができた。今日はその取材である。

狙い目をつけた工場に、電話をかけ、メールをして、その返事に一喜一憂し、何日も突撃して、幾度となく断られ、またその度に一喜一憂する。

「もう少し頭を使えよ」とか「お前は工場に入ることが目的なのか」などと言われそうだと、私自身想像できたけれども、それでも、私はそこでの思わぬ出会いによる衝撃や、思わぬ観点を見つけることが好きであった。けれどもやっぱり、こんなにもあっさりと工場内に入れることの幸せなどなかった。

工場は、プノンペン市内からバイクで一時間ほどにあるPPSEZと呼ばれる、経済特別区域にあった。カンボジアには経済特別区域は現在4つあり、経済発展のために法的、行政的に特別な地位を与えられている地域である。

1時間以上、いや私は初めて行く場所までの道ではいつもゆっくり周りを見ながらバイクを走らせるため、1時間半以上はかかっただろうか、気がつけば、暑さで頭がぼーっとしはじめ、肌が日焼けによって、すぐに真っ赤になりはじめる。改めて、バイク事故への恐怖を感じ、我に返りながら、少し道を通り越すも、無事、経済特区に到着した。

中に入ると、先ほどまでの物を積んだ大きな2トントラックの大群たちの騒がしさとは打って変わって、車はおろか、バイクすら走っていない。道はあまりに広く、経済特区の敷地も異常なまでに広い。確かにいくつもの企業、工場が辺り一面に広がっている。

私はいつもの通り、バイクに乗って散歩を始める。経済特区内をうろうろしていると、現地の人たちが出入りする通路を見つけたので、そこから外に出てみると、一気に景色が変わる。

木の板一枚の上に、日用品を並べた人たちが、気だるそうに横たわっている。少し横道にそれると、小さな部屋の集合体で、新しく綺麗なアパートメントがいくつもある。経済特区の影響で、住まいを移った人たちだろうか。牛や犬たちが、大量に積まれたゴミをあさって、お腹を満たしている。見慣れた光景である。

道沿いにバイクを走らせると、現地の人達が緑と黄色の鮮やかなアパートメントをせっせとつくっている。こんなに家を作って誰が住むのだろうか。この村に入ってくる小奇麗な格好をした白人を見ることはないのであろう、どこを通っても口をあけたままどこまでも子どもたちの視線が追いかけてくる。これも田舎にいけばよくあることだ。

約束の時間に近くなったので、工場に向かうため、その場を離れた。

工場を案内してくれたのは、日本人のSさん。前まではカバンの工場で働いていたのだが、経営が悪化し、雇用を打ち切られてしまったという。今は工場で生産管理の仕事をしている。中に入り、冷たい空気がいっぱいにつまった一室で少しばかり言葉を交わし、早速工場の中を見せてもらった。

従業員は700人ほど、Tシャツによってきちんとそれぞれの役割がわかるようになっている。カンボジア人の中にも、技術や能力によって、「班長」「副班長」の役割が決まっている。

日本語を流暢に扱うカンボジア人のSくんは、責任者を任され、黒のTシャツを身にまとっている。他にも、黒いTシャツを着ているのは、日本人はじめ、中国人人、ベトナム人2人、フィリピン人2人である。

工場の中に入ると、ミシンの音が鳴り響いていた。確かに中はもわっとしているものの、特別な大型の機械で、ミストを飛ばしながら、できるだけ涼しくなるように整備が整っている。そのせいか少しだけ、湿度が高いですよという匂いが鼻につくが、特段、過ごしにくいというわけでもない。さすがに日系といっても、日本の会社のように、クーラーががんがん効いて寒さで耐えられないような環境にはない。そうするには、あまりに工場内が広すぎる。といっても温度計は33度を記録していた。

働く人たちを一人一人見ていくと、あまりに幅広い年齢層に驚く。女性だけでなく髪を金色に染めた遊び盛りの若い男の子たちも多く目にした。これは珍しいという。

私たちは、工場で働く労働者とひとくくりにしがちであるが、それぞれの年代に複雑な背景があり、考え方も明らかに異なる。それは、日本や他の外国と比べることは、あまりに無意味な行為だ。

落ち着き仕事に集中する年齢層が高めの女性を見ながら、工場の人員を管理する若いスタッフは

「年齢層が高い人たちとどう接すればよいか難しい」

とぼそっと漏らす。

現在50歳の女性は、ポルポト政権時、8歳、ポルポトだけでなく、当時は、ベトナム戦争もあった。

Sさんも頭を悩ます。

「教育を受けてきた人はあの年齢層はほぼ皆無。彼女たちを指導するということは、いかに大変であるか」

彼女たちだって、好きでその時代を生きてきたわけではない。その世代と日常で接する機会は私ですら当たり前となっているが、果たしてどれほど生きづらい想いをしてきたか、話を聞く度に、胸が締め付けられる。

さらにいえば、この工場の中、彼女たちが生きてきた時代と若いカンボジア人ですら、文化的な違いがはっきりと見える。

ここまで人々の人生を大転換させたポルポト、そしてそれを取り巻く人間たちは、いかなるものだったのか、あまりに軽く、私の想像力を超えていくのである。

生産性を考えろ、貯金しろ、未来を考えろといった、私たちにとって当たり前のアドバイスは、彼らにとってあまりに空虚なものである。

この工場の勤務時間は、7時半〜11時半、1時間の休憩をはさみ16時半まで。他の工場では、7時から16時まで、といった勤務体系もあるが、おおよそこの時間での仕事が多い。カンボジアでは普通の勤務時間である。

さらっと、残業について尋ねてみた。

「残業はどれくらいあるんですか?」

無論、私が「残業24時間」などという答えを求めているわけではない。一人一人によって異なるそれぞれの考え方を聞きたいのだ。その答えは私にとっては都合のよいものになった。

「今の時期は残業はほとんどありません。受注している仕事量が、いまのままで対処できるからです」

これは決して、売上が立たないというわけではない。あまりに受注数が少なければ、従業員を雇えないため問題だが、受注数を増やすと今度はあまりに労働が過酷になり、労働者に無理を強いてしまう。

「上手くバランスを保つことが、工場を運営する上で大切になってきます」

だからといって、決して、お給料を減らすことはない。あくまできちんと成り立たせることが重要なわけだ。

一方で、もちろんそれだけに起因するはずがないが「残業がない」という理由で辞めてしまう労働者もいる。

残業でお金を稼ぐということは、どこの国だって変わらない。残業が多すぎても、少なすぎても、いけないというわけだ。

経営者の視点からすると、現段階では、残業をさせればさせるほど赤字になってしまうため、できるだけ残業は避けたいという。

労働者の能力による生産性によって、商品の生産量が変わってくるからだ。

「16時以降の残業は60%の人が、18時以降の残業は30%くらいの人がします」

カンボジアの労働者たちは、アンケートで、94%の人々が残業をしている。と答えている。こういう書き方をした途端、残業が絶対悪のような見え方になってしまうので、残業という言葉を定義しようと試みたが、それは立場によって変わるため、不可能であった。

ある人にとっては、残業とは「生きていくための必要不可欠なもの」であるかもしれないし、工場のスタッフにとっては、「経営していくにあたって必要なもの」かもしれない。またある人にとっては「仕方なく労働者に払っている必要経費」かもしれない。

労働の技術をあげるためには、やはり継続して、長く働いてもらうことが必須だという。そのためには、残業による給料の問題だけではなく、労働者たちの心を射止めるには、労働+何か施策をうたなければならない。この工場では、識字教室を毎日実施している。

それにしても、一つ一つの服が出来上がる工程を順々に見ていくと、皆器用にそれぞれの役割を果たしている。途中の通路には、労働者たちが自由に飲める水も用意されている。一時期は、だらだらと、遊びの延長で仕事をしていたというが、最近は非常に仕事に取り組む姿勢が上がってきたそうだ。私から見たら、皆真剣そのもの。集中力を切らさず、会話も聞こえず、黙々と目の前の作業をしているプロフェッショナルたちだ。

完成した製品は日本をはじめさまざまな企業と取引している。日本でもよく見かけるような、美しいジャケットを目にした途端、思わず興奮で声をあげてしまった。この工場では、私が見る限り全工程で、裁断から最終チェックまで全て人の手を介していた。

 

お昼の11時半になったので、労働者より一足先に外に出ることにした。敷地内には、もちろん全員バイクというわけではないが、ずらっと並べられたバイクの数は見た限り100台は超える。しかも私の乗っているバイクよりもはるかに高級な、そして大きいバイクがいくつも並んでいる。てっきり皆でトラックの荷台で通勤しているものと思いきや、それぞれバイクをもっている。

いつもカンボジアにいると思うのだが、市内でもどこでも、例えば、毎日、寝転びスマートフォンを触りながら、市場で大量の商品を売っている人たちですら、皆携帯、バイクを持っている。彼らのお金はどこから出てくるのだろうか。聞くところによれば、全てローンで購入、一括で払う値段と月々払う値段は同じであるにも関わらず、彼らは月々の料金が安いと思い込み、結局お金が払えなくなり、売ることになってしまうことも多々あるとか。

将来を予測して行動することができないとカンボジア人を評価する人もいるが、これもまた同じであろう。全てが教育によるものとは言い切ることはできないが、何度も述べるように彼らには彼らなりの強く、重いそれぞれの背景があることを忘れてはならないだろう。しかし、全てを「ポル・ポト」に起因させたがる自分がいて、非常に嫌な気持ちがする。

まずは何人かの妊婦さんが先に出てきた。そういうルールが有るらしい。少し時間が経ってから、一斉に労働者たちが出てきた。

お昼ごはんは、多くの労働者たちが、工場内にくる屋台式レストランで買う。そして、木陰で、仲の良い人たちで円になって食べている。地元から来ている人も多く、何人かは家に帰っていった。ここで、案内してくれたSさんに別れを告げ、私は経済特区を出た。

 

 

「彼女たちと同じ食事をしよう」

と思い立った私が次に向かう先は、近くにある大きな工場地帯だ。ここまできて市内でご飯を食べるなど面白くもなんともない。

目の前に産業集積所と書かれた道をどんどん進むと、そこには、いつもと変らない工場が林立する姿と、労働者たちが集まる食堂があった。

真っ昼間にぎらぎらと照りつける太陽に、顔をしかめることしかできない。食欲もわかない。ましてや、路上の、もちろん綺麗とは言えない場所だ。

意外にも食堂はプノンペン市内にあるような普通の外観である。といっても、テントの下に、大雑把にプラスチックの机とイスが置いてあるだけだが。

私は豚肉とにんじん、きゃペつの炒め物と白米を頼んだ。これで2000リエル、およそ50円である。気持ち、都市部より安いか。実は前日から、異様なまでに体調が悪い。といっても腹を下しているだけである。

ときに襲ってくる激痛をこらえながらここまで運転してきたが、食べる他ない。フォークを手に取り、ナプキンで軽く拭ったあと、口に運んだそのものたちの味付けは抜群だった。ご飯がすすむ。食べる度に、いつも舌を唸らせる。うまいのだ。直球に言えば、汚いが、うまいのだ。かといって、実は毎回これを口にするのは躊躇するが・・・。

労働者たちはお昼の休憩を終え、次々と工場に戻っていく。ごく普通の生活をしているカンボジア人だ。暑いのは人間同じ。こればかりは仕方がない。2000リエルのアイスコーヒーを飲み干し、その工場地帯をあとにした。

自宅に帰る途中、もう一件寄りたい場所があったが、もうやめてくれと身体がいっている。さすがに部屋に戻り、少しばかり目を閉じた。

 

 

 

 

縫製工場で働く人たちは「かわいそう」なのか

 

「かわいそうな」労働者像をつくってきた私は、この土地で過ごしてきたこれまでのことを思い浮かべていくと、その像にあてはまる意見を耳にすることはほとんどなかった。

深刻そうな様子は見せず、労働環境に対してそこまでの不満はない。「女工哀史」を描きたがっているのは、われわれの方ではなかっただろうか。

しかし、果たして「彼らは幸せでした」で終わらせる話なはずがない。

これまでの労働者たちの話で垣間見えた話を想像してみる。その中で1つの違和感が浮かび上がってきた。

それは、彼ら自身が問題であるはずのことに、問題と思っていないこと。

さらには、問題と思っていても、納得している、いや、納得するしかない状況に陥ってしまう。こちらのほうが、根本的な問題なのではないか。これこそ、声をあげられていない人たちなのではないか。

これまで労働者たちは幾度となく声をあげてきた。しかし、その声をあげる気力も希望もなくなってしまうのではないか。

さらなる検証と取材、報告書との照らし合わせが大事だと感じた私は、自らを奮い立たせ、取材を続けた。その中で、「失神」や、「残業」に対して、労働者が悪い。そんな声を、あまり耳にしたくはなかったが、聞こえてくる。それも、1人や2人の話ではなく、聞く人聞く人、ましてや、労働者自身がそう答えることもあった。

決して、「彼らは幸せだと思っているからいいではないか」というスタンスをとりたいなどとはみじんも思っていない。

何度も強調するが、私は私が聞いた事実を書くということに専念するのみである。

確かに弱い立場である労働者を守るべきだと声をあげる気持ちもわかる。

けれど、彼らがもし、守られたくないとしたら?守る必要がないとしたら?

それよりもそれを超えた願いがあるとしたら?

様々な立場の人間に聞いたこと、それをこの章では記録として遺していきたいと思う。それは私を混乱の淵に追いつめ、取材の中止までも考えてしまうことになるのだが。

 

 

 

一人歩きする労働者の集団失神

 

縫製工場で働く人たちは世界中にいるわけであるが、カンボジアのみで報告されているものの1つに、集団失神が頻繁に起きているということはこれまでも述べてきた。

集団失神とはどういうことなのか。まさに、文字通り、一気に、そして突然、何名かが、同時に意識を失うということなのか。私にはにわかに信じられなかった。確かに、爆発などの大きな衝撃が起これば、一気に気を失うことがあるかもわからないが、頻繁に起きているという事の重大さをいまいちつかむことができない。

そもそも、失神するということに対して、日本で起きた話もあまり聞かないし、もちろん目の前で見たこともない。その異常性がどれほどのものなのであろうか、理解することができないので、このことについても、力をいれて調査し、話を聞くことにしたわけである。

失神は、一般的には、過労、栄養不足などの理由で起こっているといわれている。労働者たちなら全てがあてはまりそうではあるが、なぜカンボジアだけ、このような現象が報告されるのか。話を聞くうちに、私の中ですとんと腹落ちした。

 

現地で働く人たちに聞くと意外にも、ドライな感想が返ってくる。

「彼らが倒れるのは、圧倒的に彼らの責任ですよ。夜中までお酒を飲んで、遊ぶ。翌日のことは考えていませんから」

「私が見ていて思うのは、集団失神は、働きたくないから私もついでに倒れてしまえ!といって倒れる気がします。あとは、やはり強い臭いですかね」

カンボジア人に向けた人材紹介会社を営む鳴海さんはこう話す。

「とにかくカンボジア人はもらった給料の使い方が特殊です。

家族への仕送りを第一に考えるので、自分たちの食事を削ってまで、家族に仕送りします。栄養失調は自ら選択しているようなものです」

彼らの食事は驚くほど少ない。野菜と豚肉を合わせた料理にご飯を食べれればまだいいほうである。ちなみにこれはとにかくうまい。日本で食べる高級寿司よりはるかにうまいと言えば言い過ぎか。

または鶏がらスープとご飯。本当にお金のない人は、大量のご飯と少し辛味の聞いたつけもので食事を済ます。

鳴海さんは続ける。

「さらに職業選択の自由も保証されているわけですから彼女たちはやめることもできるわけです。そして実際に辞める人もいます。

それは、大変だからという理由が主ではなく、妊娠したからなど他の理由でやめる場合が多いです。何より、自分が何にお金を遣うか、そんなこと自分で決めるしかないですから」

現地ブランドを立ち上げた日本人の方はこうも話す。

「工場はよっぽどエシカルです。大きな工場では雇用を生むことに対しては非常に大きな価値がある。

確かに大量生産によって、それぞれが担当する部門が決まっており、服を一人で作ることには長けていないことは問題であるが、一人一人が食べていくことになんら問題はありません」

 

そうなのだ。私たちは、彼女たちを単純労働、奴隷労働などと勝手に思い込みがちであるが、縫製とは、誇りある、技術ある仕事なのだ。

私だって、縫製の仕事を目の前で見て、彼女たちの叫びを目の当たりにして、勝手に「かわいそうな仕事をしているな」と思っていた。

しかし、「世界で通用するブランドをつくりたい。働いている人たちに誇りをもってもらいたい」という社長もいる。

縫製は楽しい仕事であるべきなのだ。立派な職業であるべきなのだ。ミシンを使うには技術が必要だ。本来は苦役ではない。どう感じるかは、 拘束時間の長さ、何をつくるか、そして賃金によって変わってくるだろう。

縫製といえば、搾取工場や貧困を連想するが、歴史的に見るとそうだったわけではないのだ。日本でものづくりに励む職人さんたちは、崇拝されるのに、なぜ彼女たちは蔑まれなければならないのか。それはまぎれもなく、私自身に投げかけた言葉だ。私の中の景色はがらっと変わった。彼らに誇りをもってもらう。そのためにわたしたちが、いや、わたしができることってなんだ。

楽しそうに働いている現場を伝えることが正解なのか。それとも苦しそうに働いている人の生活を切り取るのが正解なのか。どちらも正解で、どちらも不正解である気がした。

 

これまでに書いてきた話の中でそれぞれの人間に都合よいものとなっているが、もちろんこの国にも法律は存在する。そして、カンボジアも国際条約に加盟している。しかし、このありさまなのだ。決して、労働侵害を告発するものではなく、どの場面においても、労働者にとっても、法律などあってないようなものだ。力関係は圧倒的に、雇っているオーナーが強いに決まっている。

例えば、法律では性的嫌がらせを禁止しているが、その定義をしていない。つまり、これは性的嫌がらせではないとオーナーが主張すれば、適用されないということになる。いかようにも解釈が可能という法律が、カンボジアには至るところに転がっている。

 

 

誰にとって理不尽な契約方式?

 

「保険は基本的に会社の負担になります」

「契約は3ヶ月から半年契約の人ばかりです。オーナーも労働者もわかっています」

多くの工場は、短期契約を繰り返し、労働者に適切な賃金を払わないよう上手に逃れていると多くの報告書では批判されている。

彼女たちの大半は、きちんと、自分がどういった契約で働いているのか、理解しているように思えた。なぜなら、

インタビューで「私はいくら給料をもらっていて、こういう契約なので、こうしたらよりお金がもらえます」

と明確に答えるのだ。

もちろん、家族がその契約を管理していることもあるという人もいるから、一概にそうとは言い切れないものの、契約書を書いていることは記憶にあるという労働者が大半である。

カンボジアの労働形式について、なんとか資料に食らいついてみると、

FDC(fixed Duration Contract))契約、UDC(Unfixed Duration Contract)契約、SDC(Specific Duration Contract)が主な契約になるらしい。

2年を超えれば、FDC契約ではなくUDC契約となるが、季節やニーズによって変わる不安定な産業のため、工場のオーナーにとっては、短期で契約を結びたいというわけだ。

また、工場のオーナーはこうも話す。「利益はなるべく出したい。そのために、法律に基づいて、2年間を超える短期契約を繰り返すしかない」

つまりどういうことか。

日本で言えば、契約社員として雇い、正社員になる前に、契約を一旦解除してからもう一度契約社員として契約を結ぶ。そうすることによって、オーナーは社会保険など、余分なお金を払わなくてすむ。会社にとって好都合なのである。どこの国もやることは変らない。

 

総じて、労働者たちが働いていく上で、1番こわいこと、それは、働けなくなることで、お金がなくなってしまうことである。

だから、彼らは、ものを言うことができない。ここに大きな不和を感じる。

ものをいうと、オーナーから「解雇」されるかもしれない恐怖がある。立場の弱い労働者にとって、何か不満はあっても、簡単に口にできない。例え、労働者たちは、「お金がもらえるから今の仕事のままでいい」と答える人も多かった。しかし、その言葉の背景には、少なからず不満があるだろうと推測できる。

「残業がない」「残業ばかり」「給料が低い」これまでの不満は少なからず出るし、私は簡単にその原因を国際ブランドのせいにしていては、いつまでも、このまま時代が進んでいく。そんな思いを強めてきた。

その一方で、労働者たちにとっても、仕事の苦労は当たり前の話と認識している。

「私たち労働者たちは、オーナーたちに何かものをいうことはできないですし、何かをいっても変わることはないと知っています。そのため、政府に対して抗議をすることになります。そこにしか出口はありません。

オーナーは自由に、工場を潰す判断をできるわけですから。文句を言うなら辞めて、他の職につけばいい。それだけの話です。」

その一例が、妊婦への対応だ。

工場のスタッフはこう話す。

「確かに、妊婦さんをやめさせることはあります。例えば、今まで就いていた職とは異なる仕事をしてもらったりして、プレッシャーをかけることもなくはないです。けれど、経営者にとっては、同じ給料を払うなら作業できない人たちにお金を払うのはなるべく避けたいわけです。嫉妬やいじめなど労働者同士の関係が悪くなれば、工場全体に悪影響を及ぼす可能性もあるわけで。このことは、どの工場のどの労働者もわかっていることです。」

経営者にとって、妊婦さんは大きな悩みの種となっている一方で、職を失いたくない、お金を稼ぎたい妊婦さんは、無理をしてでも働き続ける。

「大きな工場であれば、一人くらいやめても経営者は気にしないのです。」と工場のスタッフはいう。

労働環境改善を求める団体から発される「妊婦への差別」や「出産のために仕事を休む分、他の人たちと同じ給料を与えるわけにはいかない」という経営者、そして「差別されている」と声をあげる労働者、様々な意見が入り混じっていた。

 

 

 

 

強者の論理で世の中は成り立っていることを突きつけられた。

もう私のやることは終わったのだ。人に話を聞けば聞くほど、「試合終了」の四文字が浮かんでくる。彼らが幸せであればそれでいいのだ。私たちは私たちの生活に多少の不平、不満はありながらもある程度生活に満足しているように、彼らも満足しているのだ。何より、それを好んでやっているのだ。

「かわいそう」という先入観の押し付けなどやめたほうがいい。4畳1間にシェアして暮らしていたって、彼らは何とも思わない。幸せだ。日本の満員電車のほうがよっぽど不幸せだろう。

彼らにとって職業は選べないというのはうそだ。もちろん日本だって同じだ。願えば必ず行ける場所などない。本当に生活に困って、売春に走らざるを得ない人も見てきた。けれど、それはカンボジアだって日本だってどの大陸のどの国であろうと同じなのだ。

「そりゃそうだ」と当たり前のことがすんなりと自らの頭に浮かび、なんとかかき消そうとするが答えは見つからない。これでいいのだ。もうあとは力を抜いて、目一杯この美しい、あまりに美しいカンボジアの大地に身を任せればいいのだ。

急に食欲がなくなってきた。味が濃くて早死しますよといわんばかりの調味料の多さに混ざったその肉と野菜があまりにおいしいのにそれすら食べる元気もなくなってしまった。かといってこのまま家にも帰りたくない。

とぼとぼ歩いたその路地裏には、小さく3ドルと書かれたマッサージの看板が出ていた。よくわからないけれど、仕方なく入ってみた。

1時間3ドルなのに15分で終了させられたマッサージ師は、12歳の少女で、その細く弱い指には何も心地よさを感じず、その時間の経過の速さに何か告げ口を叩きたくなったが、純粋無垢なその表情を見て私は帰路についた。

 

家賃35ドル生活の描き方

 

まさか人が通るはずないと思うような、ドブ川の小さな細い道に沿って進み、左に曲がると、そこはアパートの入口だった。いくつもある林立したアパートの部屋の一部屋、そこがプッティーさん一家が住む場所であった。

迷走してひきこもりがちだった私は多少の元気を取り戻し、これまでもお世話になり続けている活動家たちのグループにこうメッセージを投げかけた。

「工場で働いている仲の良い友人はいないか?」

Facebookが命の次に大切なカンボジア人の彼らの返事は、一分もたたずに返ってきた。1番に答えたのはやはりハック。

「僕の婚約者とその母親、姉、全員工場で働いているよ。明日一緒にご飯食べよう」

と、とんとん拍子で進んでいった。

こういうわけで、プッティーさん一家にお邪魔したのである。ハックの仕事が終わる17時に合わせて待ち合わせをし、バイクを走らせた。

その途中で、「今日家を引っ越したばかりなんだ」とハックが言った。なぜ引っ越したのかを尋ねると、「前住んでいた家が取り壊されるから」らしい。

「ああ。ここでもそういうことが起きているのか」と思った。これまでの取材を思い出し、また怒りがこみ上げる。

カンボジア各地で、政府が外国企業と結びつき、土地を差し出すため、強制的にそこに住む住民を排除するという出来事があまりに日常的に起きている。

本来なら補償があるべきなのにこの国ではもう仕方のないこととして扱われている。声を挙げ続け補償を求める人たちも数多くいる。しかし、プッティーさん一家はその命令をだまって受け入れた。

以前住んでいたという家に立ち寄ると、家を出る直前の家族たちが、楽しそうに会話をしていた。その一部屋は35ドル。物で溢れ、人が住めるとは思えないような衛生環境、それでも彼女たちは、ここで暮らすしかやっていくことができなかった。首都・プノンペンの物価が生活様式を物語っている。

その後、プッティーさんの新居に到着した。荷物だけが無造作に置かれた部屋だった。まずは砂にまみれた床の掃除からスタートした。なぜか、私も引っ越しのお手伝いをしていたというわけであるが、それがまた楽しかった。なんだか家族の一員になったような錯覚に陥る。

取材する気満々で来たけれども、もはやどうでもよくなってきてしまった。それにいきなり話を聞き出すほど、面白くない取材だと自らを納得させ、まずは同じ時間を過ごすことにした。

ハックは、野菜を売りに来た女性にためらう様子もなく品物をまとめて買った。

「え、なんで買ったの?」

と聞いたらあっさり

「誰も買ってくれないらしいから」だと言った。

へえ〜、そういうものなのか。これも文化なのか、それとも彼の性格なのか。

家の空間にはみじんも快適さを感じなかった。しかし、とことん不快な気分になるはずのその異質な部屋なのにも関わらず、その不快さは少し和らいでいた。なぜだろう。気持ちが満たされているから?

ジーンズは雨で濡れ、山盛りになった砂とごみが家の中に集められている。その砂が足の裏を常につきまとう。トイレのタイルのような床が一般的だ。安そうなプラスチックのイスと、今にも折れそうな木の板がくつろぎスペースだ。

プッティーさんのお姉さんの家族も隣の家で暮らしていた。

お姉さんの夫はとにかく人の世話が大好きで、絶えずにこにこしていた。私に何度も「ここに座れ」とイスを用意し、扇風機を私に向けてくれた。さらには無類の酒好きで、とにかく乾杯をしたがり、お酒を一気に飲むことを強要してくるのが少しやっかいではあったが、なんとなく憎めなかった。結局、べろんべろんに酔っ払った私は、家までハックに送ってもらった。

私はこの様子やこの時を過ごして、どう描いていくべきか、迷っているわけである。

「こんな狭い小さなところに住んでいて、かわいそうな家族」とも、「満足できる部屋ではないけれども、彼女たちは日常に幸せを噛み締めている」とも書けるわけであるが、果たして、こんな一端の人間である私に、結論づけることなどできるはずはないよなと自らと会話したあげく、やはり、この葛藤をそのまま書くことしかできないのだ。

 

 

 

物価上昇を読み解く

 

いまさらではあるが、プノンペンの物価の上昇は、もろに直撃する。私の生活に。

もちろん、縫製労働者も。いや、全ての、カンボジアに息づく人間に。やはり「生活がは苦しい」のだろうか。生活が苦しいとは何なのか。金銭的な話に限ったことなのだろうか。

もちろん、プノンペン含めカンボジアは驚くほど急激に、市場での野菜、コメ、肉、全ての価格が上昇している。

工場で働くある女性は、残業を含めて230ドル稼いだものの、家賃の上昇により、生活は昔となんら変わりないと答える。

労働組合や組合活動家たちの国際的な組織であるアジア最低賃金同盟は、カンボジアに推奨する生活賃金水準は月額およそ285ドルであるとしている。現在の最低賃金は153ドルである。

近所の綺麗な、エアコンの効いたカフェに入ると、1番安いコーヒーでも200円は超える。最低の値段が300円以上する場所もある。日本と何ら変わりないのである。

道端にある露天コーヒーですら、150円を超える。もちろん100円以内で飲める、カンボジア人にとってのソウルドリンクはあるが、日本ですらコンビニのコーヒーは100円である。

生活が苦しく、「途上国に住むべきなのでは」と考えたこともある私はその考えを即刻撤回した。カンボジアですら生活が苦しくなるという矛盾に満ちていたからである。

おしゃれなカフェに行かなければいいと言われてしまえば、そこでおしまいではあるがそうもいかない。あまりの暑さに体が蝕まれてしまう。

 

また、今年から労働者は、国の健康保険に毎月拠出することが義務付けられるようになった。この健康保険は医療措置を受ける際に資金を節約することができるものの、多くの労働者は給与が増えた分のほとんどが費やされるようになったと感じている。

カンボジア政府は二〇一五年に、最低賃金の上昇分が家主に搾取されないようにするため、家賃管理法を施行することでこの問題を解決しようとしたものの、法律の強制力は弱く、家賃の上昇を止めることはできなかった。その生活苦はいったいどこからきて、どこへ向かうのだろうか。

 

 

「工場で働くことは安全で安心」

 

まずはとにかく同じ時間を過ごすこと。それが私のモットーだ。言語や国籍は違えど、同じ人間。自分の都合だけを相手に押し付けることはどんなことであれ、相手は離れていく。

相手に自分の志を伝えなくして、その上でできた信頼なくして、いきなり何かをお願いするという大失敗を犯した20歳での経験は確実に生きている。まずは、きちんと対面し、デートをしよう。現地の人を頼ることしかできないのだ。わたしには。だからこそ、丁寧に、丁寧に、相手のことを、全力で思いやる。

早速、以前プノンペンで会った1人の女性に「会いたい」という旨の連絡をすると、快く「いいよ〜」と返してくれ、翌日会うことになった。

お互いに、お互いのことをたくさん話した。カンボジア、そして日本の国について思うことをたくさん話した。すうちに相手がどれだけの敏腕ビジネスマンかわかってきた。たくさんの場数を踏み、たくさんのことの当事者になっていることがわかった。お互い、話したいこと、聞きたいことがヒートアップし、話は尽きなかった。翌日も会うことになり、話を聞いた。

彼女は現在、パン屋の社長をやっている。彼女は、「私は工場で働いていました。工場のオーナーに近いポジションである管理スタッフも経験しました」というまさに工場での労働者であった。

長期に及ぶインタビューで描き出された彼女の生涯は、まさしく今のカンボジア人を代弁しているようであった。

 

「14歳、二〇〇六年のときに私は姉のように、縫製工場で働くことにしました。私たちの家族にお金はなく、母に『あなたの妹と弟にかけるお金もない。学校もやめたら?』と言われたので、私は自分のお金を自分で稼ぐしかありませんでした。私は学校に行って勉強したかったので、仕事を探していました。

14歳の私にとって、縫製工場は、とにかく安全な場所でした。よく子どもたちは、路面で何か物を売っていますが、そうすると、知らない男の人に襲われ、どこかに連れて行かれる恐れがあるため、工場で、多くの人に囲まれて働くということは、非常に安心でした。

「14歳では本来働けないから、私のIDカードの生年月日は、いくらか本来より早めの数字でした。そういう人も多かったですし、今でもそういう人はいます」

カンボジアの労働法は、15歳から雇用することができるが、18歳未満の子どもには、軽作業しか行うことができない。そして夜間の仕事は禁止されている。

 

「工場に入った当時の給料は月25ドルでした。けれど、前に話した通り、当時は物がとても安かったので、前よりは良い生活をできるようになりました。3ヶ月後には30ドルになりました。工場のオーナーは中国人でした。当時、すべての工場は中国でした。なので、私たちカンボジア人は、中国人がいなかったら、何の仕事もありませんでした。

最初の仕事は、コントロールチェックといって、出来上がった製品を出荷する前にチェックする仕事です。例えば、少し糸がほつれていたらその部分をカットしていました。最初は仕事のやり方が全然わからないのに、いつもスタッフに怒られて、『なんで働いているんだろう』と毎日毎日泣きながら仕事していました。けれど学校へ行くために頑張るしかありませんでした」

 

 

「15歳頃に、私は家を出て、一人で暮らすようになりました。私は家族、両親に、大切にされていないと感じました。下の子どもたちばかり面倒を見ていて、とても寂しかったのです。14歳の時、私は特に怒ることもなく、母に尋ねました。『どうして私とはあまり話してくれないの?』母は何も答えませんでした。

それもあって、近くの教会に住むことにしました。クリスチャンになり、4年間お祈りもしました。外国の人がたまにきて、私に少しばかりのお金を恵んでくれました。

縫製工場では、毎日毎日、お給料日を待つ日々、同じワーカーたちともそればかり話していましたが、日が経つにつれて縫う技術が上がり、楽しくなっていきました。靴やカバン、服を見るだけで、どのように作られているかわかるようになったり、いろいろなことを工場の人たちは教えてくれました。

工場で一人一人がいくつ、何分で製品をつくるか把握するためにタイマーで時間を計るのは普通にあることです。ノルマがあります。

また工場は、綺麗ともいえないものでした。けれど、それは工場の責任だけでなく、ワーカーさんたちの責任でもありました。なぜなら、私たちは教育を受けず、田舎で育ちました。だから、トイレの使い方などもわかりませんでした。トイレの臭いが充満するのも、私たちのせいでした。自分たちの機械を壊れたまま使用して怪我をするのも、私たちは自分のせいだというのはわかっていました。

それぞれが、自分の機械に責任をもって使うということは当たり前でした。

なので、修理を自分でしたり、わからなければ他の人に聞くことを自分でしなければなりませんでした。修理しないまま、機械を使うことは、危ないと考えるのは当然です。それを使ってしまうのは、それぞれのせいです。

通勤も、今は非常に危ないのではないかと言われているのを聞きましたが、私も、他の人たちも、あまり気にしていません。私たちは、工場のお給料を、できるだけ家族に送りたいのです。なるべく余分なことには使いたくないのです。だから、家から工場までの移動でトラックの荷台にのることは普通です。

そこで、『工場が安全な一人一席あるバスをつくってくれ』と要求したところで、工場は「もしあなたがここで働きたくないのであれば、出ていけばいい」と言うでしょう。だから、私たちは、このようなことは特に口にするようなことでもありません。

お昼の休憩の時間は1時間でした。遅刻したら1ドルくらいお給料からひかれてしまいます。私が働いた二個目のppsezの会社は、給食があり、2000リエルくらいでご飯が食べられました。今よりもずっと安い値段です。

そしてその距離は近かったので、とてもリラックスできました。そういった工場ばかりではないので、そうでない工場で働いていたときは、1時間は短く、あまりリラックスできませんでした。出来たばかりの工場で大きくない工場は、従業員もいないので、給食は用意されません。

14歳から18歳まで、7時から11時まで高校に通いながら、その後、ワーカーとして働きました。それ以降は工場のスタッフとして、管理の仕事をするようになりました。そのため、何が起きているのか、全てわかるようになりました。ワーカーのときは全くわかりませんでした。この頃から私は「社長になりたい」と思うようになりました。

皆さん知らないと思いますが、カンボジアで作られているすべてのものが、Made in Cambodiaになるわけではないんですよ。私たちの工場では、オーナーが中国人だったので、中国に一度出荷され、Made in Chinaと表示され、商品が売られていくのです。その仕組が書かれた書類を私は出荷管理など様々な仕事をする上で見ました。びっくりしました」

 

彼女は、縫製工場だけではなく、過去の苦しい、恐怖の体験をも口にしてくれた。しかし、この言葉たちが、私を新たな世界へと導いてくれるような、そんな感覚に陥った。私は、縫製工場における労働者の問題は、その問題だけの話だと、勝手に思い込んでいた。けれど、彼女たちに根底にあるもの、若い人たちの根底にあるもの、それは何なのか、少しずつ理解するようになっていくのである。

その後彼女は21歳で仕事をやめ、自分の溜めたお金で大学に通った。卒業後、また別の工場でスタッフとして働き、2年経ったあと、パン屋兼カフェの現地責任者となり、現在は経営者として、3人のスタッフを抱えながら業務を行っている。彼女は叶えたのだ。社長になるという目標を。

 

 

ユニクロ下請け工場の実態

 

夜20時。一人で入ることなど私にはできないお店での取材だった。日本語の話せる女の子たちとお酒を飲んだり、カラオケができるお店、まるでキャバクラのような、しかし、落ち着いた空気が漂うバーで待ち合わせていたのは、工場で生産管理を行う中国人男性、Yさん。

「初めまして、田中です」と、日本語の話せる優秀な彼に挨拶をし、「では早速ですが」と仕事のお話をした。

どんな働き方をしているのか、今まではなにをしてきたのか、横で聞こえる日本人駐在員たちの歌声をかき消すような、大きな声で会話を続けた。

YさんはユニクロとGUも知っていた。というより、ユニクロやGUをつくる工場そのもので働いていたのだ。

1500を超えるカンボジアの工場の中で、ユニクロが提携している工場は、たった4つしかない。なんという奇跡だろうか。

お酒を飲んでいるときは、まだそのことに気がついておらず、現地に行って私は知ることになったのだが。

会話の中で、Yさんは

「明後日の朝戻るけど、一緒に来る〜?」

という軽い感じで誘ってきたので、取材も煮詰まっていたしありだな〜と思い「一回考えてまた返事します!」

とあいまいな返事のまま、夜0時頃、御礼をいって自宅に戻った。ユニクロを作っている工場と知らずに。

翌日、改めて行きますというメッセージを送り、翌々日、朝の9時にプノンペンで人気な日本のスーパー、イオンモールで待ち合わせ会社の車でバベットに向かった。そこには、会社の同僚であるUさんも同乗していた。

彼女がスーパーマンだということはその時点では知らず、工場でその働きぶりに驚かされることとなる。

ぼこぼこな道を全速力で進む運転手の恐怖運転に、うかうかと眠っておられず、かといってすることもないので本を読み気持ち悪くなるという中、工場近辺に到着した。

2人が住むという中国人の家が立ち並ぶ自宅で、少し休憩したあと、早速工場へと向かった。

すると、私の持つ資料に載っているユニクロの工場を示す名前の工場に入っていったのだ。「まさか」

そのまさかであった。

広大な敷地にあるいくつかの工場の1つを見学していると、私はついに目にしてしまった。あの、日本の店頭に並んでいるものだった。タグや値段含めたそのままのカタチをしたものが、そこにあるのだ。本当にここが生産地なんだと心躍り、「今私が身につけている商品全てがそのブランドなんだよ」というアピールをしたら、周りの人たちは優しく笑ってくれた。

布の切断から、順を追って生産ラインをチェック、徐々に出来上がっていくその商品をこの目に焼き付けることができた。しかし、私の仕事は、生産していることをチェックすることではない。きちんと疑問に思っていることを当事者たちにぶつけ、そしてくまなく工場の様子を見るということだ。

それにしても、私の最も強く、そして深く残った印象、それは、異常なまでに「清潔」であるということだ。正直、糸くず1つ落ちていない、そんなイメージと化すほどに床は綺麗に片付いており、働く女性たちも私を見ると笑顔を返してくれる。

これまでも様々な工場に足を運んできて、確かに似たような反応であったが、日本でのファーストリテイリング批判に比べてこの状況という落差に、私は舌をまいた。さらに私は聞けば聞くほどに、日本でいかに適当な事実なき批判が繰り返されていたか、思い知ることになる。

 

Poくんはこの工場にきて、2年になるという。

「ここの工場では、残業代は普通の時間の1.5倍。休日も1.5倍。繁忙期になると、夜から朝まで働く人たちも出てきますが、彼らは2倍、残業代がもらえるため、自分からすすんで仕事をする人も多いです。

基本的に、残業は強制ではなく、できる人を募集し、その中で、多くいる『残業したい人』が手をあげる、そんな仕組みになっています。残業できない会社を辞めて、残業できる会社を求めてくる人も非常に多いですから」

「24時間連続で働くことは一切ありません、そんな光景は見たことも聞いたこともありません」と労働者の誰に聞いてもそう答える。

「朝まで働く人もシフト制になっているため、ずっと働き続けることはありません。生産性も落ちるため、経営者にとっても、やらせたくありません」

ユニクロを生産するような大きな工場では、きちんとした経営ライセンスが必要になってくる。スタッフが何度も強調していたことは、工場には環境に対する厳しい審査基準が求められ、それをクリアしなければ、ユニクロのような大手のブランドの生産はできないということであった。

それだけ倫理が求められているということが、全面に彼らの口から放たれた言葉からにじみでていた。

ユニクロの下請け工場を批判する週刊文春の記事で、「スタッフが労働者に向かってハサミを投げつけるという話もあったのだが」

という質問を投げかけると、

「そんなこと見たことがありません。中国人のオーナーとかでしょうか?

そもそも、投げつけるような人たちが工場にいることはありませんから。

多少、中国人の現場スタッフが、言葉でいろいろアドバイスしていることが、叱っているように聞こえることもありますが・・・」

とのことであった。

あえて言っておくが私が取材した「この工場では」である。

また、日本語を駆使し、スタッフたちをまとめる労働者の1人は、工場内で結婚し、今は子どもを授かった。

「奥さん、どこにいるの?」と聞いたら、

「すぐそこにいますよ」と目をやると、本当に横のテーブルで、大きなお腹を抱えながら、働いていたので、話を聞いてみると、

「産休中の支払いは給与の半分をもらっている」

とのこと。

「この工場のおかげで奥さんを捕まえることができました」とにやける、という表現が正しいであろうか、嬉しそうな表情を見せてくれた。

生産管理を任されている中国人のUさんは、クメール語を堪能に扱い、カンボジア人と議論を交わす。出来上がった靴下やパンツを見せながら、「ここをもう少しこうしたほうがいい」「左右の長さが少し違うよ」などと労働者たちに指示をしていた。

彼女たちの優秀さに、私は舌をまいた。確かに、中国語は相手にとって、その話し方も声の大きさも、なんだか責められているような印象を受けることはあった。しかし、彼女の人間的な優しさは、共に移動し、自宅にもお邪魔し、話す中で、十分伝わってきた。

現地の人たちと現地の言葉で、お互い納得した表情を見せながら、議論を続ける様子を見て、彼らによって工場は支えられ、カンボジア人の労働者たちが、

「中国のおかげでこの国はここまで育ってきたし、今も支えられている」

と言葉を漏らす理由がなんとなくわかった気がする。

中国に対して、あまり良い印象を持っていない私ですらその感情はひっくり返ったといってもいいほどの衝撃を受けた。

「中国によって支えられている」

はっきりと、カタチとして目に見えた現場であった。

 

ブランドは、どこまで責任をもち、どこまで工場に介入をしているのか、全くもってわからなかった。しかし、思いの外、企業は、深くまで入りこみ、指導をしていた。

アディダスやプーマ、ユニクロ、などのブランドは、工場まで指摘しにくるという。工場のスタッフ側の声では、「あーだこーだ言われて面倒くさい」と思うほど。

ブランド側の人間が工場に来る際、工場側が人権侵害を「隠す」ために、工場を綺麗にする。などといった先入観が走るのは、無論、日本での答えありきの情報や記事が流れるからであるが、決してそうではないみたいだ。

工場の経営者にとって、効率が落ち、受注が受けられなくなることは、結局のところ、「倒産」を意味する。ブランド側の現場を知らない無意味な指摘は、労働者たちの効率を下げる。家に帰るのに、遠回りして帰る、そのような、最適な生産を遠ざけていますと、工場のスタッフは答える。

ブランド側にとって、そこで人権侵害が行われているとなれば、ブランドを大きく傷つけることになるため、どうしても避けなければならず、工場を監査しなければならない。ここに、両者の葛藤が見える。

それでも強いのは、発注先である、ブランドだ。会社の喉元まで出かかった不満は飲み込まれ、ブランドの言いなりになることが多いのだという。工場にとって、率直な言葉で描くとすれば「邪魔」なのである。責任をもって、私たちにやらせてくれ。と、そんな彼らの心の声が、聞こえてきたような気がした。

総じて、これまでの通り、ユニクロを生産する工場であれ、どこであれ、これまで述べてきたことと同じであり、特別、ユニクロの労働環境を批判するようなポイントは、私の取材では見つかることはなかったという事実がある。これ以上、探ってももう出てこないし、むしろ、聞けば聞くほど、幸せになる、そんな工場見学であった。

最後に付け足しておくが、ユニクロは価格の低い商品を日本で売っているから、働いている人たちの給料は安いと思われがちだが、実際私が入った工場で作られていたある日本のブランドは、価格がそこそこする中間層向けの商品を扱っていた。しかし、カンボジア人の人件費に関してはユニクロであろうがどこのブランドであろうが変らないのである。そのお金の差はどこにあるのだろうか。

 

 

 

第五章 正義と欲望のはざま

 

これまでの事例で共通していることは、どちらにおいても言い分があるということである。

労働者にとっても、最低賃金の153ドルというお金が、多くもらっていると感じている人もいれば、少ないと感じている人もいた。それは、もっと服を買いたいと思う人がいれば、その額では足りなくなる。

日本でも、それは同じだろう。確かに、最低賃金をあげることができれば、労働者にとっては、よりよい生活を送ることができるが、賃金の是非については、はっきりと主張することは困難である。しかし、これよりも重要な問題の本質が次々と浮かび上がってきたのだ。だからこそ、その問題の根源を、綴り、主張してみよう。

 

縫製工場労働者にまつわる諸問題が生じた際に助けとなるのが、労働組合や、労働監督署だろう。日本でも同じである。

日本では、労働組合の集まった組織、日本労働組合総連合解、通称「連合」がある。その連合が発表しているホームページから「なぜ労働組合が必要なのか」ということがわかりやすく記されている。「そもそも労働組合とはなんなのだろうか」と思った私は調べることにした。

 

寄り添うふり搾取ビジネス

 

 

連合という言葉を耳にしたことはあるだろうか。2017年10月に行われた衆議院選挙で、小池百合子都知事が希望の党を立ち上げ、民進党が事実上分裂、立憲民主党が立ち上がりといった野党の混乱していたことは記憶に新しいと思う。そうした動きの中で、民進党をサポートしていた連合が、どこの党を支援するのか、貴重な財源となっていたため、その動きが注目されていた。その連合の会長が神津里季生氏である。

日本労働組合総連合会の略で親しまれており、ホームページには、「すべての働く人たちのために、雇用と暮らしを守る取り組みを進めています」と記載されている。主に、大企業の正社員で組織されている。

 

なぜ、連合、労働組合が必要なのか。こちらも連合のホームページから一部引用してみよう。

 

 会社と労働者という関係では、会社の方が立場的に強いというのが一般的。そのため、ひとりの社員が、雇用条件などについて社長に直談判するには、相当な勇気と覚悟が必要です。しかし、労働組合であれば、働く人の代表という立場で、雇う側と対等に話し合える「集団的労使関係」を築くことができるので、働く人の意見を、職場に反映させることが可能になるのです。セクハラ、パワハラといった問題をはじめ、「賃金をもっと上げたい」「長時間労働をなくして、ワーク・ライフ・バランスを実現したい」など、職場環境をより良くしたいと願う人を支え、仕事にやりがいを、生活に充実感をもたらすことができるのが労働組合なのです。

 

 

労働組合は、「労働者の立場を守るもの」である。

前出の通り、労働者たちを守り、労働者たちに支持されていた大きな労働組合の代表、チェ・ビチェアが、殺されてしまった。これまでも労働組合は必死に政府との交渉を粘り強く続けてきた。

しかし、探っていくうちに、少しずつ、問題の光がつかめてきたような気がした。それは男性のAさんのこの一言だった。

「1番悪いのは労働組合でしょうね」

一番悪いのは労働組合!?

Aさんは経験談を話してくれた。

「労働組合のトップ2の人にお会いしたことがあります。その人は、元々工場の労働者でした。だから労働者の気持ちもわかる。大変なこともあったけれど、どうしても出世したかったから、スキマ時間をぬって英語を勉強した。

そして、労働組合に入り成果を出して、労働者を守りたかった。政府からの要望も間違っていることはNoと言いたい。そんなことを話していました。

感動して、その場で挨拶をし、別れる時、彼は、レクサスの中でも高級な車に乗り、去っていきました。愕然としました。彼のお給料は、労働者が組合に登録するためにかかるお金から出ているからです。これは立派な搾取ビジネスです」

労働組合は、自分の私服を肥やすために労働者を使ってお金を儲けようとしているのか・・・。どこまでが真偽なのか。

「また、デモをやる際、労組から労働者に日当が出ているのも確かです」。

「お金を渡すなんて話は当たり前だ」

と多くの人は口をそろえる。

野党側の労働組合が、「労働者は過酷な環境に身をおいている」ということを世界中に知らしめることで、次回の選挙への足がかりにできる。だから、労働者たちにお金を払って、デモ活動を起こさせるというわけだ。

 

労働者に賃金をあげる運動をしろとお金をばらまいて命令するにも関わらず、どうしてそのお金を労働者たちに回さないのか?

社会の矛盾に私は立ち向かうことなどできないのだ。この国の日常をただただ見つめていると、「お前はもうここにきても意味がない」と突きつけられたような感覚に陥る。

これが私たちの国のシステムなのだ、と。お前が邪魔をして入り込む余地などないのだ、と。

 

 

 

労働組合による政治利用

 

しかし、倒れてしまう労働者たちがいるという事実は決して忘れてはならない。彼女たちの生活水準をあげることは必須だし、栄養や睡眠をとってもらうための環境づくりも早急に整備する必要がある。

その上で、私服を肥やし、労働者たちを駒として扱う人間たちをいかにして監視していくべきなのかを考えなければならない。

労働者を蜜のようにして寄ってくる人間たちをいかに減らすことができるかが労働者への本質的な保護につながる。それが私なりの答えなのである。

なぜ、労働組合は工場を嫌い、なぜ工場は労働組合を嫌うのだろうか。

 

労働組合は、星の数ほどあるという。工場の関係者によれば、

「労働組合に関しては、2種類あります。1つは普通にあるもの、もう1つは政治絡みのものです。少なくとも工場1つにつき、組合は1つなければなりません。政治絡みの組合は、いくつかあって、基本的に賄賂をもらっています。もちろん直接的にではありませんよ。労働者にお金をわたし、仲間を誘導し、デモなどの運動を起こさせるためです。とにかく与党を批判したいわけです。政治利用のためです。」

ここでも、また同じ着地点となる。

またこんな話もある。

「政府から直接、工場に対して何か言ってくることはありません。しかし、工場側にとって困っているのは、政府と手を組んでいる、労働組合や軍隊、警察などが「消化器をここにいくつ置きなさい。そしてその消化器はここから買いなさい」と指示してくることです。あまりにしつこいので、私たちはそういったものに対処するのが手間であり、めんどうなので、わかった、買うから。と、仕方なく、買います。ときには、コーヒーを飲みたいから、2000リエル、などと、わけのわからないことを言ってくる場合もあるので、もう笑えてしまいます」

 

「労働者が怪我をした場合、労組は工場側が治療費を払えと要求します。こっちとしては、もう労働組合の人間には来てほしくないし、面倒なので、仕方なく払っています」

労働者が倒れれば倒れるほど、彼らの私服は肥え、車が新しくなり、お腹は膨らんでいくというというのが、これまで何人もの経営者に聞いた中での着地点なのである。労働組合の私服が超えるシステムは闇の中だ。

 

 

 

強者が振りかざす斧

 

だからといって、全ての労働組合がそのようなことを行っているわけではない。真剣に労働者のことを考え、取り組む人も少なからずいる。それは、冒頭に書いた殺害されたユニオンリーダー、ビチェアがまさにそうだった。

その労働組合を設立すると、なると省庁の認可が必要となる。

今度は、逆の立場だ。

ここでは、このような労働組合を避けるために、設立を防ぎたい人間たちによって、つくりあげられた複雑なシステムには多くの批判が生まれている。

 

二〇一三年一二月、労働者が賃上げを求めてデモを行ったことにより、煩雑な労働組合登録手続きを導入した。これによって、オーナー側は労働組合の結成を阻止したい狙いがあるという。

「労働組合を設立するには、司法省から犯罪記録がないか確認する必要があります。そのための証明書を発行するのに1〜2年もかかります。

スペルを含めた少しの間違いを都合よく見つけ、申請を遅らせ、再度提出、拒否を繰り返すことで、組合への登録を妨げています。

このやりとりで数ヶ月はかかります。また登録後も、登録申請から2ヶ月以内に全ての組合が登録されているが、ライセンスが発給されなければ、権利を行使できないとしています。

また、政府は、司法手続きなしに都合良く労働組合を廃止することができます。なぜなら、カンボジア政府が経済的な協議やカンボジア王国の利益に損害を与えた行為を引き起こしたとみなした団体や組織を廃止できるという曖昧な定義が存在するからです」

政府にとって1番恐れるべきことは、仕事を発注するブランドが、より安い賃金を求めて、他国へ進出することである。そうなるとカンボジアの経済が伸び悩み、労働者が職を失い、国内情勢が不安定になる。すると政府への当たりが強くなる。もちろん、GDPなどの成長率を国際社会にアピールするための指標が下がっていくことに対する懸念も考えられる。

そのため、こうした規制を行うことで、労働者の規制を行っている。

二〇一四年、カンボジア労働省は労働環境の監視を改善するために、政府労働監督官という新たな機関を設置した。しかし、調査内容に関しての透明性はなく、労働者たちからの信頼はない。

このように、それぞれの立場の欲望が交じりあっているというわけだ。

腐敗と汚職に、もう労働者や関係者たちは、怒りを通り越して飽々しているのだ。

労働組合という存在は、労働者にとって、本来ならセーフティーネットになるべきものであるのにも関わらず、恐怖となる。なぜならば、オーナーが、組合に加入していると耳に入れば、契約更新や、採用されない事もあるからだ。労働者にとっては、現地の活動家や、ジャーナリストに会うことも危険性をはらんでいる。それは私自身も間違いなく対象となるのである。

そのため、解雇される恐怖から逃れられない労働者は、容易に労働組合に相談することができない。ましてや、労働者側に、契約や金銭など法律に関する知識があるわけでもない。専門家に相談するための十分な賃金もなく、ただひたすら目の前にある仕事を我慢してこなしつづけなければならない。抗議すらできない彼らにとって、限界を迎えたと示すものは、「失神」という手段になるのだ。

 

これまで記した通り「では仕事をやめればいいのではないか」

という意見もある。しかし、その言葉を浴びると想像できること自体、彼らにとっては負担となる。強者の論理であると思い込み、「私たちには無理だから」とその場で思考がとまり、生活を受け入れる。

私だって、辞めたいなら辞めればいいとも思うし、その一方で、辞めてしまったら働く場所がなくなり、生活できなくなってしまう。

彼らの本当の気持ちなどわかるはずがない。それでも私は聴くしかない。私は、労働者たちの状況に立っていたい。

やめたいならやめればいい。強者が振りかざすこの大斧は、意外にも多くの労働者たちは理解しているのだ。

彼らが仕事をしたくても仕事がないから、今の仕事があっても辞めることはできない。だからかわいそうだ。人権を守ろう。と私たちは考えがちだ。

もちろん、労働環境は守るべきだし、経営者やオーナー、ブランドが好き勝手やっていいといっているわけではない。その批判をするよりも、先入観をとりはずすと前向きに頑張ろうとする彼女たちの、そのひたむきさをサポートしていく動きに光をあて、大いに支援していくことこそ、実は彼女たちにとって、今の生活を抜け出す、そしてこれからも役に立つような、それこそ「生きる力」につながるのではないか。

そんなことを、私は、プノンペンの工場の外で、一人、座り込みながら考えた。

 

 

 

 

「小さな声」という幻想

 

 

私はもう1つ、頭の片隅に覚えた違和感が拭えなかった。

果たして、彼らの声は、本当に声をあげることのできない、小さな声なのだろうか。果たして、私は彼らの声を伝えることで労働者の人権問題について取材をしたといっていいのだろうか。

さらに取材を重ねるしかない。

そんなことを考えていたとき、もう一つ聞き逃せない出来事があった。労働者にとって、絶望の淵に落とされる瞬間があるという。それは、賃金を払わず会社を潰し、逃亡してしまうオーナーが後を絶たないということだ。

 

「オーナーが逃げてしまうことは本当によくあることなのです。会社を潰すと厳しいペナルティを負わされます。倒産するより、夜逃げするほうが楽というわけです」

確かに、その通りなんだが、それで許されるべきなのか・・・。

私の取材に答えてくれた男性のさらっと当たり前のように発した言葉は、私を悩ませた。

それによって賃金未払いのままどうしようもなくなった労働者たちは自殺を計る。こんなことあっていいのだろうか。

工場が突然なくなったときのために、失業保険を用意されているわけでもない。これは、国として大いに問題があるのではないか。しかし、政府や官僚は全く無関心だと訴える人もいる。

多くの労働組合は、経営者が工場を買い入れ又は借り入れる前に、保証金の支払いを強制する事で、国外退去の際もある種の補償金として補填できるような仕組みを政府に陳情している。

労働者たちの多くは、お給料の支払いがないと気づいたときには、すでにオーナーがいなくなっているという。そこで初めて気がつくわけだ。どうしようもなくなった労働者は、自らの賃金の補償を求め、工場で抗議活動に出る。

労働法の規定によれば、工場の閉鎖後48時間以内に最終賃金と退職金を受け取っているはずであり、家族の生計を工場収入に頼っていた労働者たちは心理的、身体的、そして経済的にも悲惨な状況に陥っている。

工場オーナーの逃亡以降、自殺を試みる労働者もいる。

あるいは、現地紙によると、 100名以上の工場労働者は数週間に渡り、プノンペンの地方裁判所と、同工場から長年製品を購入していたイギリスのショッピング企業マークス&スペンサーオフィスの前で抗議活動を行ったという。

カンボジアでは昨年、140の繊維工場が操業を停止しているといわれている。その一方で、その閉鎖数は問題ではない。新設される工場のほうが多いため、労働者も就職できる可能性は高く、衰退していくわけではない、と労働省は発表しているものの、果たして、真実はどうなのだろうか。

工場の新規開業数は閉鎖数より多く、縫製産業は好調と言える。

このように、労働省のコメントは多くの人々が憂慮するカンボジアの縫製産業の状況とは対照的である。

「労働省も私たちの訴えをたらい回しにします。彼らのことは全く信用できません」

こうして新しい仕事を探すしかなくなるのであるが、この対応を許してしまえば今後も同じことが際限なく起きてしまう。

 

工場の閉鎖は免税のため?

 

先ほど記した通り、カンボジアでは、工場の閉鎖する数が多いという批判を受けている。本来ならば、業績悪化による倒産、もしくは、より安い人件費を求めて他国に進出するという点において、カンボジアという市場に危機感が持たれるが、決してそういう一面ばかりではない。

工場の免税期間が終了した後に工場を閉鎖するという業界全体の慣習がある。

「多くの工場が5年間で閉鎖し、同じ場所や別の場所でまた再開します。別の名前ではありますが、同じオーナーです」

「カンボジアは、5年まで法人税が無料」だからであるという。

しかし、企業の身勝手さには、スタッフやワーカーたちが怒るのは当然のことであろう。なぜならば、皆勤や勤続の手当がなかったことにされてしまうからである。

その一方で、カンボジア縫製協会の会長は「工場は再オープンしていると組合側は主張していますが、我々の会員数が減少していることを示しています。

会員数が減少しているのは、注文数が減少している一方で最低賃金が上昇し続けたため、利益を上げることができず、閉鎖を余儀なくされたためです」と話している。

だからといって、この問題全てをフン・セン首相が扱えるわけではないという。工場のオーナーと労働者の関係に口を挟めることとそうでないことがあるからだ。しかし、労働者によれば、「フン・センが言わないと誰も動かない」というのも現実としてある。

 

 

 

工場のオーナーやスタッフ側にも、労働者を雇う上で、納得のいかないところもあるはず。労働者側の意見だけを通すわけにはいかない。そう思い、率直な意見を聞いてみた。

 

ー工場の作業は何時頃に終わるんですか?

「地方に工場があるので、労働者の家から遠い。だいたい1時間〜2時間、トラックでかかるわけですから、労働者は朝の4時、5時に起きるのが当たり前になるわけです。そのため終わりの時間は1番遅くとも、18時半には撤収するようにしています。」

 

ー閑散期もあるみたいですが、そういった場合はどう対応するのですか?

「閑散期が、だいたい春と秋。なぜなら、カンボジアには、その時期に休みが多く、ブランド側も発注できないわけです。その間、違う国の違う工場とやりとりをしています」

 

ー労働者に対して要求や不満はありますか?

 

「カンボジア人は進歩することを覚えるべきです。工場にきたときに、仕事の仕方を忘れてしまってできないということもよくおこります」

また、「不良品率が異様に高いです。不良品の倉庫があるくらいです。その不良品は1キロいくらなどでまた別の場所と取引しています。だいたい10%の不良品率ですがこれは異常です。」

「商品を盗んで、売り物にする労働者もあとを経ちません。もちろん発覚したらクビにしますが、全てを確認することなどできません」

 

 

 

 

「リテラシー」という名の無責任

 

取材が終わった日の夜、私はよくバイクを走らせ、川沿いに向かう。座りながら、特に何をするでもなく、ぼーとする時間が好きだ。その時間は、その日やこれまでの取材の整理にもってこいなのだ。

大して美しくもないその川と対岸に見える車のライトを追いかけていると、

否が応でも自分は何しにきたんだろうと自らの人生について考え込んでしまう。

次々と浮かぶ疑問や感情は、汚い川と広い大地に吸い込まれるように消えていく。

 

最低賃金を求めて闘う労働者、それを政治利用する野党、発砲を正当化する与党、労働者を利用する労働組合。

政治に有利にするために、労働者にお金というにんじんをぶらさげ、その上で、血が流れることすら厭わない。利用されて当然なのか?利用されるほうが悪いのか?

それが政治なのか?

どの問題についてもそうだが、外国から得た援助は、次々と政府や中間管理職の人間の懐をあたためていく。なんともやりきれない悔しさが残る。

これが、社会、世界の当たり前なのか、と。

どれほど、過酷な労働環境を取材できたら楽だったか。

前持って入れた知識通りに、そのピースがあてはまってくれたらどれほど容易に進んだだろうか。そんな悪魔な自分がふとしたときに出てくる。

もちろん、数々の苦しい想いをしてきた人も目にしてきた。彼らの叫びをそのままストレートに伝えなければ、彼らの声は薄まってしまう。そんなことも脳裏によぎった。けれど、本当にそれでいいのだろうか。1つの事実に目をつぶって伝えることは簡単だ。けれど、自分の気持ちはそれでいいのだろうか。

取材でお世話になった人たちを裏切ることにならないか。そんなことを反芻する。

 

NGOやジャーナリストたちの気持ちも痛いほどわかる。苦労して時間をかけて取材をしてきて、「結果、半々でした。終わり」では、はっきりいって仕事にならないから。面白い部分を切り取って、客観性とは言いつつも、客観性なんてあるはずがないのは当然なのだ。

行く場所や聞く人など、結局自分のフィルターを通しているし。いや、正確に言えば、フィルターを通すべきだ、あとは受け取る側の情報リテラシーに任せよう。だから、リテラシーを高めることが大切だ。というもっともらしい、けれども、いかに投げやりで無責任で思考が停止してしまうようなこの論理が横行している。

事実を伝えることは大切だが、その事実をいかに切り取り伝えるかも大切。これまでの人たちはそうして情報を伝えてきたのだ。

けれど、自ら知ったことをなかったことにして、自分が書きやすいからといって描いた片方だけの事実によって、より多くの小さな声がかき消されてしまう可能性があるのではないかと。事実なき批判によって、もしカンボジアにある全ての工場が潰れてしまったとしたら。

そんなことあるはずないと理解はしているものの、工場のオーナーや国、ブランドをただ批判することの恐怖を感じる。

 

何度も、もう取材をやめようかと思った。

確かに、人は亡くなってく。その事故を減らす努力をしなければならない。それは日本の事故と何ら変わりない。彼らの設備が悪いから、というのは大嘘だ。環境も明らかに良い。

 

では私はどうするべきなのだろうか。これまでの取材を振り返ってみる。

確かに、彼らに、しつこく、それでもしつこく、話を聞かせてくれと話しかけてきたわたしに耳にも、彼らの不平や不満は聞こえてきた。それでも、だから、労働侵害だ。と声高に叫ぶのは、少し違う気がする。

私がやるべきことは、いや、私だからこそやるべきことは、素直に、わざわざ若造のわたしに時間を割いてくれた多くの人々の答えてくれたその言葉たちを、一つ一つ遺していくことなのではないか。

ずっと昔から、工場でものを作っている人たちがこの国には多い。その理由は一つではない。けれど、いま世界がこういう状況の中で、この国が急速に姿を変えていくこの状況の中で、「何年たっても工場の様子は変わっていないよ」なはずがない。

私が見てきた、そして私が生きている、いまを切り取ること。

弱い立場の声を伝える、それ以外にも、一般的には知られていない違う事実を知ってもらう。それに全力を注ぎ込みたい。

 

 

 

ジャーナリストは市民の声を伝えればいいのか

 

 

「常に権力じゃない側にたつのがジャーナリストだ」というイメージを私はもっている。何があろうと市民の言い分を伝える。

これが、「弱者に寄り添うのがジャーナリストとして美しいのだ」というのならば、私は、ジャーナリストではない。

弱者に寄り添うことがジャーナリストの基本だというのはわかる。権力に立ち向かうのもわかる。けれど、私なりに持っていた違和感がある。そして同世代の友人に聞いたこともある。

「常に物事を否定だけするその姿勢が嫌いだ」

多くの仕事は社会をよくするためにある。私はこの世の中をよりよくしたい。そのための手段として私はメディアに興味を持った。

なるべく多くの角度から、例え支持者がどちらであれ、自身がどちらからも否定されようとも、常に事実をつかむ努力をしたい。

この世の中に「右」も「左」もないのだ。そういうレッテル貼りをしておけば、格好がつくのだ。

余談だが、ある大学生が、ネット右翼、いわゆる「ネトウヨ」のことを「ネットでうようよしている人のことでしょ?」と言ってきたときは、腹を抱えて笑ってしまったが。

 

そういえば、今思うと私は何のあてもなく現地に飛び込んだったんだっけ。何かこの国のためにできると思い込んで、当たり前なのに、何もできなくて、どうしようって泣いて。

そんな人、ただのあほだと思う。それでも、こうして今につながっている。ああ、行ってよかったと思う。

このパターンは毎回同じ。

現場に行けば何かあると思っている。実際に何もなくていつも途方にくれるのに。もしかしたらお金も時間も無駄遣いしているだけのかもしれない。けれど結局感じることがあるから、やめられない。

私がやると決めた道なのだ。声なき声を拾いたいと高らかに就職活動で宣言していたではないか。

きっと、日本や欧米で売られているその安く、使い捨てられる服をつくっている労働者たちも人間としての生き様がある。

「人権侵害」といわれることがなくたっていい。無理して問題など見つける必要はない。問題なんていくらでもどこにでもあるのだから。

異国で働く、私たちが気に入ってお金を払って選んだ服をつくった「私たちのパートナー」がどんな生活をして、どんなことを想い、何を楽しみに暮らしているのか。ただそれだけでいい。そう思うと、少しばかり肩の荷がおりる。

私は、一挙手一投足に気を配りながら、事実に基づいて丁寧に取材を重ねてきたつもりだ。しかし、「だから真実が見えてきた」という世の中そんな美しいものではない。ただ、1つ言えることは、相手から紡がれるその言葉たちが、私の脳に刺激を与える。知らなかったことを知るということが快感なのだ。彼らの言葉と人生の重みを正面から受け止める。それでいいのだと自分に言い聞かせる。

横にいる彼や彼女は何を考えてドブ川を眺めているのだろうか。聞くまでもないそのことを考える。現地の有名らしい音楽と子供の遊びの声が夜遅くになっても耳に入ってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

第六章 ファッションとカンボジアの向かう先

 

 

自動化は何をもたらすか

 

「工場も自動化が進んでいる」という話を工場の関係者から聞いた。

国際労働機関はカンボジアのアパレル産業の未来において、生産の自動化が労働者の88%に重大な影響を与えると警告する報告書を発表した。

実際に、機械が導入されてしまったら、労働者の仕事はなくなってしまうのだろうか。という問いはあまりに私には大きかった。

感情移入した私の個人的な感想ではあるが、機械が導入されるということは、これまで労働者たちがやっていたことは機械と同じ、すなわちただの作業する駒としての扱いであったと思われてしまうのではないか、と思い、非常に胸が苦しくなった。

自動化と聞けば、耳障りは良いもののその実態については、私にはわからない。となれば、やはり詳しい人に聞くのが1番である。「これからの縫製」という面も頭の片隅に入れながら歩き回ってみた。

 

縫製工場の経営者は、自動化へ期待し「人よりも機械に投資する」意欲が高いと話す。なぜなら「機械は生産性が低下せず、撤去も自在」であるからだという。

自動化といえば、ロボットの導入や3Dプリント、コンピュータ設計などである。しかし、これからの社会において実現する可能性は低い。

工場の経営者は「いつ工場が潰れるかわからない状態で、費用のかかる機械を導入するほどこわいことはない」と言う。

ただ、「機械が彼らの生産性をチェックして、どこにどれだけの人員が必要なのか。そういったことをチェックできるようになっています」

 

また、機械の導入を考えるよりも、自らの経営を見直し、労働者の生産性を上げるために、モチベーションをあげる取り組みが先だという、至極真っ当な意見も出ている。

またアジア開発銀行のレポートによると、カンボジアのエネルギーコストは、1キロワットあたり0.18米ドルから1米ドルにも達しており、東南アジアで最も高いという。

つまり、自動化はコスト的に非常に高くつくことが考えられる。それにはエネルギー生産に長期的な政府の投資が求められるという。

このような様々な利害関係が重なり合い、自動化へのハードルはまだまだ高い。

 

 

 

カンボジア発ブランドが世界へ羽ばたく

 

カンボジアの大学には、ファッションを学ぶクラスも増えてきている。もちろんまだそれだけで食べていくには重い苦労がかかるだろうが、そういった苦しみを乗り越えていく経験もまた彼らを強くするだろう。

 

カンボジアでは、「プノンペン・デザイナーズウィーク」と呼ばれるイベントも始まり、ファッション業界に新しい風を吹き込んでいる。そうした活動も相まって、カンボジアでは、伝統的な織物の従事者が減り、大きな縫製工場で働く人が増えるという葛藤はありながら、新しいファッションの時代を築き上げようと奮闘している人たちもいる。

実はこのカンボジアは、一九五〇年代から六〇年代、ファッション愛好者にとっての楽園であったという。

この流れは、無論、「生きることが全て」と化したカンボジアにおいて忘れられていった。その後、カンボジア経済は、海外資本の発注により立て直り、若者たちが、独自のファッションを描き始めた。

夜、街を歩くと、セクシーなドレス、びしっと決まったスーツで、社交場に向かうカンボジア人を見かける。彼らの姿を見ると、汚いサンダルにジーンズというみずぼらしい姿の自分があまりに際立ち、そそくさとその場から離れるというのが定番だ。

 

 

カンボジアのファッションを引っ張る1人がカンボジア人デザイナーであるロミーダケースである。

私は、友人からそのブランドがカンボジアにあるので見てきてほしいと頼まれ、その工房、ショップを訪れたことで、初めてその名前を知った。

お店に入った途端に感じるこの異空間に私は立ち尽くしてしまった。女性用の鮮やかなドレス、その配色に適したクメールデザインが輝くアクセサリー、男性用のスーツにも、上品さの匂いが伝わり、またしても、私のみずぼらしい姿とは、ミスマッチであった。

彼女は、1966年にプノンペンで生まれ、5歳のとき、カンボジアを出て、プラハで数年住み、その後フランス・パリへと住居を移した。パリでお店を開いたあと、カンボジアに戻り、「Ambre」をオープンした。ぜひウェブサイトをのぞいてみてほしい。

このように、多くのカンボジア人デザイナーが、自らのブランドを立ち上げようと奮闘している。

ロールモデルが登場することで、「私もやってみたい」という縫製労働者の希望の星となることは、きっと労働者たちの生きる活力となるはずだし、実際にそういった声が聞こえてくる。

 

 

「徹底した透明性」のお手本

 

カンボジアではないのだが、環境に配慮した商品作りを行っている企業を紹介したい。

アメリカ・サンフランシスコにあるエバーレーンだ。

同社は生地や縫製、流通のコストがいくらで、どれくらいのマージンを取っているかといった従来のアパレル企業が明らかにしたがらなかった情報をサイト上で明示している。

こうした透明性は商品のコスト構造を見せることに留まらない。二〇一六年十月にはカシミヤニットの価格を前年の125ドルから100ドルに下げると決めた。その際、同社CEOは会員向けのメールマガジンにこう書いた。

「カシミヤは非常に高級な素材として知られています。一方カシミヤは価格流動性の非常に高い素材でもあります。素材の価格が跳ね上がれば商品価格を上げるのは当然ですが、素材の価格が下がれば商品価格を下げるのも当然です。にも関わらず既存のアパレル企業は素材の価格が下がってもそれを商品価格に反映せず利益としていたのが常でした。

私たちはそのやり方は消費者に対して誠実ではないと感じています。

今年カシミヤの価格は16%下落しました。昨年125ドルだったカシミヤのセーターを今年は100ドルで提供します。私たちは素材の価格変動にもしっかりと対応しますこれこそが徹底した透明性なのです」

こうした透明性がファンにつながっている。もう消費者の目は欺けないのだ。

また、米国における「ブラックフライデー」の売上をベトナム工場の支援に回すと発表。ベトナムでは多くの人がバイクに乗る一方で、ヘルメットを着用するドライバーは少ないといわれるため、工場の雇用者8000人にヘルメットを寄付。彼らに安全な帰り道を提供すると発信したのだ。

 

 

 

フン・セン首相と対面

 

約一ヶ月の取材を終え、日本に帰国した。取材した文章をまとめながら、自らの今後について毎日、毎日、カフェにこもり考えていた。著名人へのインタビュー取材に熱中した時期もあった。その頃、小池百合子都知事が、東京都議会選挙にて新政党「都民ファースト」を立ち上げ、百合子旋風が吹き荒れた結果、都議会は、与党第一党になり、自民党は大敗を喫した。沖縄県知事選挙や東京都知事選挙を近くで見てきた私はこの都議選を追いかけながら、頭の片隅は、カンボジアの情報を常にSNSやニュースサイトで気にかけていた。

そんな中、二〇一七年八月六日、フン・セン首相が来日することを知った。

各国の独裁者と同じように、「フン・セン首相は本当に存在するのか」と巷でささやかれるようなこともある人物と、日本で面会できるチャンスが舞い降りてきたのだ。プノンペンで彼に会ったことは一度もないし、会えるような状況にもない。

そして、初めて、生フン・セン首相が講演を行う会場に足を踏み入れることができた。接触する絶好のチャンスだった。しかし、さすがに首相が入場するときは、私も高まる気持ちを抑え、静かに座るほかなかった。多くの人に囲まれながら、フン・セン首相は席についた。私の2つ前の列にフン・セン首相が座っている。あれだけ追いかけていた中心人物がすぐそこに座っていることに胸の高まりは収まらなかった。そんな中、私の心臓の高鳴りはピークになった。

フン・セン首相は、約30分の講演のあと、意外にも、スケジュールになかった「質問タイム」を設けたのだ。経済のセミナーであるのは承知だ。私の質問はこの場に適しているとは全く思わない。さらには、日カンボジアの重鎮が集まり、若い人は見渡す限り誰もいなかった。それでも、聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥だ。こんなチャンス二度とない。腹をくくって、手をあげた。質問があたった。

「フン・セン首相、お誕生日おめでとうございます。田中と言います。昔カンボジアで働いていました。(所属を言わなければならず、フリーターとも、ジャーナリストとも言うことをためらった私はこう自己紹介せざるを得なかった)

フン・セン首相は、これまで国をつくってきました。カンボジアの友人からは強いリーダーとも聞いています。しかし、これからよりよい国造りを進めていくためには、来年の総選挙で勝つ必要があります。そのために、現在考えられている秘策などはありますか。」

経済セミナーで、しかも日本とカンボジアの親交を深める柔らかな会で、政治のシビアなことをついに聞いてしまった・・・。自己紹介最中に、すぐ目の前にいたフン・セン首相は振り返って私の顔をじっと見ていた。今でもあの顔は忘れられない。通訳を通してその質問が会場に届くと、会場から笑いが起きた。何の笑いかわからないが、私には、「こんな質問が出るのかー(笑)」といった反応にしか見えなかったし、実際そうだったと思う。会が終わったあと、知り合いの通訳の友人に、「なんで政治のこと聞いてんのよ、まったく」と怒られてしまった。

8月5日が誕生日プレゼントとして、安倍首相からゴルフクラブをもらったフン・セン首相は、笑いながら壇上に上がり、きちんと質問に答えてくれた。

「もう選挙の勝ち負けではないのです。私たち人民党が勝つか負けるかではないのです。国の平和のために考えたいんです。ここまでカンボジアという国を、壊すことなく政治活動を行ってきました。今度どんな政権になろうとも国の力を落としてはいけないのです。昔は本当に国が混乱していました。野党も選挙に負けたことを不満にデモを起こすべきではないのです。今の野党の特徴は、議席をもらい、給料をもらっているのに、与党の議席を認めない、これではいけません、きちんと受け入れなければいけない。日本は平和で発展したのです。私たちも1つひとつの積み重ね、政府として確立していきたいと考えています。そのために、選挙の勝ち負けではないと信じています」。

 

今でもその会場の空気を思い出すと、顔から火が出るような、ふりはらってしまう。それでも質問してよかったと思う。フン・セン首相からの答えは、首相らしい当たり障りのない、ツッコミどころの多いものであったけれど、一国の、そして想い入れのある国の首相に、自分の言葉が届いたと思うと、感慨深いものである。自分の疑問を当事者にぶつけること。やはりこれが私にとって1番わくわくする。そして自信を持って、事実を述べることができる。これからもこんな取材を忘れないで重ねていきたい。

それにしてもフン・セン首相の回答、現地の新聞で報道されていることと思い切り矛盾している。「次の総選挙で人民党が負けても、どんな手段を使ってでも、戦争になっても政権は私たちのものになる」という報道が出ていたから。

 

弾圧が過激化

 

カンボジアの問題がより注目され始めたのは、次々と大事件が起きた2017年9月であった。

まずは、カンボジアの最大野党、救国党のケム・ソカ氏の逮捕である。政府は、ケム・ソカ氏が米政府の支援を受け、国家を転覆させようとしたとして、「国家反逆罪」を言い渡した。翌年2018年7月の総選挙に向けて締め付けを強化していると見られている。

2013年の総選挙で躍進し、フン・セン政権に危機感を与えた最大の立役者で、前救国党党首のサム・レンシー氏は、既に逮捕容疑がかけられており、国外に逃亡している。

ケム・ソカ氏の逮捕を受け、アメリカやフランス、イギリス、ドイツ、カナダ、オーストラリアなど各国が公式な声明を発表し、カンボジア政府に対して適切な対応をとるよう促した。日本は公式声明を見送った。

 

政府は追い打ちをかけるかのように、ターゲットを絞り、野党の国会議員は次々と国から逃げ出さざるを得ない状況に陥った。

「いつ自分が逮捕されるのだろうか」という恐怖が広がっていたからだ。

ケム・ソカ氏の逮捕に続き、10月3日、同じく最大野党の副党首であるム・ソクア氏に逮捕勧告が出た。

ソクア氏は、カンボジアの国会議員でも珍しい女性議員であり、女性の人権問題や権利向上に尽力してきた。カンボジアの縫製工場で働く女性をはじめ、国民の間で人気を集めており、女性のリーダーとして国を引っ張ってきたソクア氏の国外逃亡は、国民の哀しみを生んだ。

 

ソクア氏は出国後、日本経済新聞のインタビューにこう答えている。

・公正な選挙実施などに向け、日本を含む援助国に「ビザの発給制限や技術援助の休止などの制裁に踏み切るべきだ」

・「国際社会が中国にマヒさせられてはならない。日本などが結集し(民主的な政治を求める)声を発してほしい」

・「援助国が支援を続けることは政権を後押しするのに等しい」

・「援助の休止で民主主義の優先順位の高さがはっきりする」

・「国民が投票をあきらめてしまう事態をとても恐れている」

 

 

 

ジャーナリズムの死

 

2017年9月、肌寒くなってきた季節の変わり目で、雨の降る中、渋谷のダイニングキッチンで待ち合わせたのは、デボラ・クリッシャー氏である。

これまでカンボジアでお世話になってきた英字紙・カンボジア・デイリー氏の責任者である。

その数週間前の起きた真相を聞くために私は彼女に会いたい旨を伝え、実現することになった。

 

事の発端は2017年9月4日である。カンボジアの英字紙「カンボジア・デイリー」が24年間の歴史に幕を閉じることになった。いや、正確に言えば、幕を閉じざるを得ないことであった。これまでの取材に何度も登場し、私自身多くの学びを得ていた新聞社の閉鎖は、ショックを隠しきれなかった。

なぜ、閉鎖に追い込まれたのか。突如、政府から約7億円の税の支払い命令を受けたのである。

「All the News without Fear or Favor」

恐れず、公平な報道を掲げ、

1993年、ニューズウィーク東京支局長を務めたアメリカ人ジャーナリスト、バーナード・クリッシャー氏によって創刊されたカンボジア・デイリー、最後の一面を飾ることになったのは、ケム・ソカ氏だった。

 

Descent into outright dictatorship.

(完全なる独裁政権に堕ちた)写真

そのバーナード氏の娘が、デボラ・クリッシャー氏、現在のカンボジア・デイリーの責任者である。そのインタビューを読んでいただきたい。

 

ーカンボジア・デイリーの最後の紙面は、「完全なる独裁に堕ちた」という文字につつまれ、最大野党、ケム・ソカ氏の逮捕を報じていました。その後、約一ヶ月が経ちましたが、現在どのような状況ですか。

 

1997年、フン・セン首相のクーデターにより内戦が起きたのですが、正直、今の状況は、私が25年間カンボジアに関わってきた中でそのときよりも危険で、1番大変なときだと感じています。(ため息)

 

主人は現在、カンボジアから出ることができなくなってしまいました。税金を払うまでカンボジアを出さないと政府は通告しています。もし出ようとしたら逮捕されてしまいます。まさに人質ですね。とても心配しています。ただ、主人は、「何も悪いことはしていないのだから大丈夫。私は逮捕されても構わない」と言っています。

同じく、私と、私の父も、カンボジアに行けば、もう国から出ることができないと通告されています。

現在、弁護士がカンボジアの税務署の人たちと会っています。けれど、おかしな話ですよ。主人は給料を貰わずボランティアでやっているんですから。家もなく、オフィスで寝泊まりしています。カンボジア・デイリーだって、利益はほとんど出ていないですよ。

また、私たちのWEBサイトは政府からブロックされてしまったので、カンボジアからサイトが見れないようになっている。違う方法を使って、今はなんとか見れるようになっています。メディアライセンスももちろん剥奪されています。

 

 

ー会社で働いていたスタッフは?

 

仕事がなくなってしまったので、誰か雇ってくださいと呼びかけています。皆、才能はあるから、雇用先はあるはずです。

彼らは最後まで頑張ってくれたので退職金をきちんと出しました。見捨てられないですから。

 

 

 

 

ー最初は新聞の報道で、会社が潰れると知ったんですよね?

 

はい、フレッシュニュースという政府系の新聞が「カンボジア・デイリーに税金7億円」と報じたことで、「え?」となりました。

 

そんな大金なんて払えませんし、嘘ですよ。普通、監査がありますよね。しかも、利益がありませんでしたから。どうして?という感じでした。偉い人がお金を懐にいれるために、税金が通常より多くとられるのはカンボジアでは普通ですが、そもそも利益がほとんどありませんでしたから、税金はかかるはずありません。

 

最初は真剣に思っていなかった。そんな金額ではないと返事をしたら、「9月4日に払いなさい」とだけしか来ませんでした。

ニュースに出ると、広告主は「新聞が潰れるから」と広告を全てストップしました。私たちは政府からの通告は無視したかったけれど、広告主からお金が入ってこなくなってしまった。スタッフへの給料も払えませんから、必然的に続けることができなくなりました。

 

一ヶ月間、発行するには約700万円必要なのに、150万円しかありませんでした。

私は、ずっと自分の貯金を送って続けていましたし、カンボジア人スタッフは、よく頑張ってくれたので、退職金も出しました。

もう一つの英字紙・プノンペンポストにも、税務署が入っているみたいです。公にしていないけれど。

 

 

 

ーフン・セン首相宛に、手紙を書いたと報道されていましたが。

 

私ではなく、父が送りました。

ここで不思議なことがありました。

ソイソピープさんという方から連絡が来ました。

銀行口座が凍結した日、「あと二時間でお詫びの手紙を書かないと、逮捕されます」と言うんです。それを私が届けます、と。

 

その手紙には、アシスタントを通じて来たのですが、何を書いていたのかわかんなかった。(笑)

確か、「カンボジア・デイリーが閉鎖した理由は政治的な理由ではありません。そのように申し上げたことをお許しください。カンボジア・デイリーを続けさせてください」というような文書でした。

 

けれど、もう逮捕は免れないと思い、状況も混乱していたので、書類にサインをしました。全くそんな謝るつもりはありませんが。許さないです。

フン・センさんの息子、フンマニさんと会って、ジョイントベンチャーを立ち上げてやらないかという話もきましたがお断りしました。彼は、「カンボジア・デイリー」というブランドが欲しかったんだろうと思います。

そしてもう一つ、父は父だけの手紙を書きました。

 

 

 

 

ーお父さんは?

 

怒っていますよ。医者からストップをかけられているけど、今にも日本を飛び出しそうなくらい。フン・センさんは間違っていると。

 

 

 

ー昔と比べて危機感は強い?

そうですね、内戦のときよりも、フン・センさんは、国を自由にコントロールできますよね。32年間、着々と力をつけてきたわけですから。政権にとって反対派をなくしていくという今のやり方は、中国の影響ですね。

しかし、カンボジアの国民は、自由を知っているじゃない?

それをまた戻して、締め付けるというのは厳しい。

中国人は、昔から強い圧力があり、表現の自由がないのは慣れていますけど、

カンボジア人は納得しないのではと思いますね。

中国のようには絶対に行かない。

来年の選挙はそういう手で勝つかもしれないけれど、フン・センさんを支持してくれるかわからないし、嫌われると一人ぼっちになってしまう可能性があります。

 

 

 

ー軍隊で戦争することはいとわないとプノンペンポストで言っていました。

 

 

 

ー1番の問題は、国民が絶望していることかと思うのですが。

 

そうです。それによって、優秀で、可能性のあるカンボジア人は、外国にどんどん行っていますよね。勉強もできるし、仕事もできます。

「希望がないからカンボジアでは働きたくない」そんな人も大勢います。

 

 

ー野党の党首が解雇され、国会議員も逮捕を恐れ、半数以上が国外へ逃亡しました。野党を解党するための法案も可決されました。

 

もうカンボジアの国民は諦めている人も多いでしょう。来年の総選挙に出てこれないですよね。なくなる可能性もあるし。もうどうしようもない。

 

私は、ジャーナリズムが戻れる日がくると信じています。デイリーを復活させたいです。国に報道の自由がないと外国との関係も悪化してしまうから、フン・センさんが政権からおりる前でも戻れる可能性があると信じています。

 

新聞は発行できないけど、カンボジアの人たちが出した情報を海外で発行するとかFaceBookで発信するとかできたらなと思います。カンボジア国内では逮捕されるからできませんが、カンボジアのニュースを、何が起こっているか、をカンボジア人含め関心を持っている人たちがいます。

カンボジアにいる外交官やカンボジア人のエリートの方々が読んでくださっていました。(メイン読者層)

しかし私たちはできないから、誰かがプロジェクトを取り上げてやってもらうことを考えている。責任を持ったジャーナリズムを進めたい。

 

 

 

ー国際社会からの圧力が必要だと思います。人権理事会にもこのテーマが話題になりました。

 

 

カンボジアにお金をいれている国に、対応をお願いしたいです。人権問題を尊重すれば、これくらい支援しますよ、というベンチマークをつくらないといけない。日本はただ支援をしている。日本が何も言っていないのががっかり。

 

 

ーどういうジャーナリスムが必要?カンボジアデイリーのコンセプトは「公平なおそれなきジャーナリズム」でした。

 

公平なジャーナリズムです。意見をいれず、事実を伝える。情報として。意見は読者が読んで判断する。それだけは意識していました。与党でも野党でも良いこと、悪いこと、どちらも報道していました。どっちを助けるわけではありません。

 

ただ、必然的にフン・セン政権を批判しているように思われていたかもしれません。けれど、それは仕方のないことです。

カンボジアには問題がいっぱいあります。全てがフン・センさんのせいにしているわけではありません。しかし、賄賂とか人身売買とか、カンボジアの社会問題を書くと、行き着く先は、「トップの人達がうまくやっていないから」という印象を与えてしまうわけですから。でもその問題を知って、向き合って、どうしていくのか、解決策を考えて、皆で決めていくべきじゃない?それが、デモクラシーじゃない?

 

 

 

ー最大の問題はどこにあるのでしょう。

 

汚職ですね。

もちろんカンボジアには法律があります。けれど、法律があっても、汚職があれば法律なんてどうにでもできてしまう。お金さえ払えば、何でも許されるわけですから。

シンガポールをみていると、政府で働いている人は、きちんとお給料をもらっているから、お金のために、犯罪を見逃すとかをやらない。汚職があった場合、大きい罰を与えるとか、策を考えないと行けないと思います。

カンボジアでは、政府の人も警察も、そんなにお金を給料ではもらってないですよね。じゃあどうして、一部のトップの人たちはすごいマンションや車を持っているの?

税務署の人たちも、国民から税金をもらって、どれだけ懐に入っているかはわかりません。不透明ですから。では、どうしてこういう人たちが30万円のディナーを食べられるの?不動産をもっているの?私が直接聞いた話です。

 

 

今、世界では大きな問題がたくさんありますよね。北朝鮮の核ミサイル、ロヒンギャ、一方、カンボジアは虐殺があるわけじゃない。報道の自由なんて見向きもされない。

 

正直な自分でいられないのが辛いから、シンガポールに行く。とか。

 

 

ー中国は、野党党首が逮捕されたことに対してよくやったとコメントしていましたよね。

 

カンボジアのジャーナリズムの可能性はあると思う。そのために、ジャーナリズムがどうあるべきか。権力のチェックができるのは、ジャーナリズムがあるから。他のメディアはもうこわくて厳しいチェックができていません。

 

 

 

 

ポル・ポト政権崩壊後の混乱のさなかからカンボジアのジャーナリズムを創り上げてきた彼女は「最大の心配事」としてぼそっともらした。

「カンボジア人の優秀な若い人たちが自国に絶望し、生きる道を海外で探してしまっている」

 

 

 

外務大臣・河野太郎氏のブログ

 

9月29日、日本が議長国として開かれた国連人権理事会において、

「カンボジアの人権状況」に対する話し合いが行われた。

外務大臣である河野太郎氏は、自身のブログでカンボジアを巡る国際社会の状況についてブログにこう綴った。

 

 

9月29日、ジュネーブで日本外交がまた一つ、小さな、しかし、明るい光をともしました。

ジュネーブで開催中の国連人連理事会で、日本はカンボジアの人権状況を改善させるために、対立する欧米諸国とカンボジアの間を調整し、カンボジアも参加した決議案をコンセンサスで採択させました。

日本は、カンボジアにおける人権状況を懸念し、カンボジア政府自身による人権状況改善の取り組みを促すために、国連とカンボジア政府が協力し、来年3月に国連から書面で人権状況の改善について報告させるという決議案を人権理事会に提出しました。

アメリカは、来年7月に予定されているカンボジア国政選挙を前に、カンボジア国内の人権状況が懸念されると、来年3月の人権理事会において国連による口頭の報告とインタラクティブダイアローグを実施すべきと主張し、これらを追加する修正案を提出しました。

これに対してカンボジアは非常に強く反発し、この決議修正案が採択された場合には、決議から離脱すると表明しました。

アメリカ案には英国、スイス、ドイツ、オランダなどヨーロッパ諸国が賛成したものの賛成は12か国にとどまり、日本などアジア、アフリカ、中南米20か国が反対し、サウジアラビア、韓国、ブラジルなど15か国が棄権し、否決されました。

その後、日本提案が無投票で欧米諸国もカンボジアも含めたコンセンサス採択されました。

例年の決議案と比べるとカンボジアの人権状況への懸念を明記し、カンボジア政府からの人権状況を報告させるなどの譲歩引き出しながら、カンボジア政府を決議の中にとどまらせることにも成功しました。

決議に際し、修正案に賛成したアメリカ、EU、スイスからも、日本の調整努力に感謝するとの発言があり、当事国カンボジアからは日本の調整努力への感謝を示したうえで、人権や民主主義にコミットしていくとの発言がありました。

これからも、日本は、アジア、アフリカ、中南米の人権や民主主義の前進に向けて努力する一方、欧米とそれらの国々との対立をやわらげる独自の視点での外交を進めていきます。

 

 

SNS時代の取材術と河野大臣からの応答

 

こうした河野外相のブログを教えてくれたのも、SNSで出会った、カンボジアでは有名な一人の活動家、ハイ・ワンナー氏であった。

私がオンラインメディアで、カンボジア情勢について発信し続けていたところ、彼がニュースサイトにのっている私のSNSからメッセージをくれたのだ。それからやりとりをするようになり、お互い情報交換や、外務省に足を運び請願書を提出するなど、カンボジアのことを真剣に考える場所ができた。

カンボジア人といえば、Facebookが異様なほど普及している。そしてとにかく自撮りの写真をアップロードし、関係のない多くの友人をタグ付けする日本人には理解のできない利用の仕方もよく見られる。カンボジアに滞在し始めてから、カンボジア人の友人も増え、タイムラインが情報で溢れている。

SNSは人それぞれ、独自の情報をキャッチアップできる。だから、自分の生きている環境がはっきりとタイムライン上に表される。こうして私はFacebookを始めとしてSNSを使い、積み上げてきたものを基に取材することが多い。「なぜ若者はSNSをやめられないのか」という批判も多々見られるが、あまりに無駄な情報も多く、嫉妬と憎悪にまみれ疲労困憊に陥ることもあるのだが、その情報の数%の中に、自分の人生を彩り、変える情報が埋まっているということを、潜在的に脳が覚えている。なぜなら、私も、Facebookによって知ったイベントや人との出会いで、人生の大きな決断をし、わくわくする世界に足を踏み入れることができたという成功体験をすでにしているからだ。

もし、一度もSNSによって自分の行動が変わったことがないのであれば、その喜びを知らないからSNSから離れることも可能であろう。そんなSNSの強さをもろに受けた世代なのである。

その1つとして、紹介したいことがある。

私が何気なくTwitterで「河野太郎さんに死ぬまでに一回はインタビューをしたい」というつぶやきに、河野太郎外務大臣が応答したのである。その応答はまもなく1000リツイート、2000いいねに達するほど拡散された。この内容もないつぶやきで、である。特に「そこからインタビューが生まれた」というサクセスストーリがあるわけではないが、これの何がすごいのか。それは、日本の大臣に、一人の名も知れない人間の声が届くということである。

大企業に勤める多くの人が「社長と話したことがない」と漏らしている。社長と会うためには、ましてや自社の社長ではなく、他社の社長に会うためには、秘書など、様々な制約をくぐり抜けた上で、ようやく会えるか、会えないか、といった具合ではないだろうか。

どんなに雲の上の存在であろうと、どんなに歳の差があろうと、SNSというプラットフォーム上では、同じ1ユーザーとして利用している。その人に対して直接声を届けることができるという社会のシステムは、組織のしがらみや上司の顔色を気にすることないフリーの取材者としては非常に強力なツールなのである。

 

 

 

 

エゴイズム

 

「はっきりいってそれだけお金をもらっていれば、生活には全く問題ありません。もっと低い人たちなどたくさんいますから。

縫製工場で働く人たちのお給料はいいです。彼らは技術職ですから。誰でもできるものではありません。だからこそ、きちんと最低賃金が保証されているわけです」

ふとした瞬間に思い出す。

「ああ、そうだ。最低賃金は、縫製工場の労働者だけに適用されていたんだと・・・」

最低賃金が保証されている人がいるということは、最低賃金が適用されていない人もいるのだ。いや、されていない人のほうがこの国には多いのだ。

縫製以外の仕事において、どんな賃金で働かせようとも法律違反を犯したことにならない。

 

ニュースになるのは、縫製工場の労働者ばかりだが、ニュースにならない人たちも大勢いる。

私は常に葛藤していた。どの立場に立って発信するべきなのだろうか、と。

しかし、それを考えることは私の力では到底及ばなかった。だから私はあらゆる人の立場から見てみるしかなかった。それが結果的にあらゆる発見へとつながった。だから私は、当初構想していたタイトルは「カンボジア 絶望の労働」や「ファストファッションのその先に」、「カンボジア ルポ下請け工場」といったカンボジアやファッションに焦点を当てたものであった。しかし、改めて考えてみると、人間たちによってつくられて歴史の中で、人間たちが生きるエゴがぶつかりあった、その人間らしさが浮かび上がってきたように見えた。だからそれぞれの思惑や葛藤を中心に取材していこうと考えるようになった。

決してこれはファストファッションや労働環境だけの問題ではない。国内だけの問題でもなく、世界の問題でもある。そう思ったのは、アメリカの外相がカンボジアに訪れた際に、救済を求める人々が結集したことである。これが国際社会で問題を解決していくということなのか、とそのとき初めて外交の重要さに気がついた。と、同時に、私たち日本人、私たち日本は、このカンボジアという国を始め、どこまで監視できる役割を果たしているのだろうか、と思わざるを得なかった。カンボジア人が求めているのは、「変化」だ。彼らは国際社会に助けの力を求めている。

現在、カンボジア政府は、いざ何が起きた際に取り締まれるよう、様々な法案の種を撒き続けている。例えとしてNGO法という法律をあげてみたい。

噛み砕いて言えば、国際NGOなどカンボジアで活動している海外の団体を、政府の不都合があった場合に、撤退を強制できるというものである。

その目的は、市民組織の権利と自由を保障するとともに、国際テロ組織や国際犯罪組織への資金の流入を防ぐことにあるという。しかし、野党や市民団体は、結社の自由を侵害し、組織に対する政府の管理を強化するものであるとの懸念を示している。

他にも全ては書ききることはできないが、もう一つだけ、カンボジアの状況を記録したい。

プノンペンにあるボレイケイラ地区では、昔、HIVの巣窟となっており、そこの土地を埋め立てたい政府と、外国企業が結びつき、そこに住む人々を暴力を持って強制的に追い出し、家は壊され、警察や軍隊と市民は衝突、何人もの人々が血を流してきた。政府のその市民に対する補償はあまりにひどく、市民たちは10年以上も抗議し続けている。

怒りのやり場がない彼らの表情は、覇気がない。それを政府側は狙って沈黙を続けてきた。だから、私がその土地を訪れたとき、何十人に囲まれ、連絡先を教えてくれと頼まれたこともあった。

彼らにとって、わずかな可能性である解決の糸口をなんとかたぐりよせたい、そんな気持ちだっただろう。

このような出来事が、私をこの国を追いかけ続けたい理由になっていく。私は、彼らから少しでも託された希望を、少しでもどこかに届けなければいけない。

 

2017年5月1日、国際労働者の日、メーデーとも呼ばれるその日に、およそ3000人の労働者、その関係者たちが、大行進を行った。

「妊婦への差別をやめろ」「労働者の権利を守れ」

あチェンもこのデモに参加していた。「どこの誰に言おうとも、誰も耳を傾けようとしない。それならば国会議事堂の前で、声をあげるしかない」

ちまたでは、「日当をもらっている」と噂を流す人もいる。確かに、嘘ではない可能性も高い。だからといってなんなのだ。いいではないか。

自らの生きる権利のために。そしてなによりこの社会を変えたいと、これまで声をあげることすらできなかった人たちが、勇気をもって立ち上がった。

「自国で、二度と同じ大きな過ちを繰り返させない」

彼らの気迫は、強く、しかし一歩ずつ、この世の中を動かしている。その姿を見て、どうも涙をこらえきることはできなかった。

 

総じて、これまでの取材は、私が1人でばかみたいに熱くなっているだけかもしれない。けれど、私は根拠のない自信がある。というより、もう常日頃から、起きている暗殺を見れば、その1人1人の命が亡くなっている状況が、あまりに恐ろしく、これからも起こる可能性があると考えると、より恐ろしく思えてきてしまうわけである。私の予想通りになるとは限らない。

けれど、

もしあのとき自分が取材を発表していれば・・・皆が様々な情報について知っていれば・・・あの人は死ななかったのに・・・」と思うことだけは勘弁である。

悲観的かもしれないが、事が起きてからでは遅いのだ。今のうちに少しでも予防できることがあれば・・・。

少しでも知っている人が増え、少しでも犠牲者が減るのであれば、伝える意味はあるし、まさにこの仕事の醍醐味なのではないかとも思う。

来年の夏、この国にとって、歴史の転換点となるのだ。5年に1度行われる総選挙、その事実だけは変らない。衝突が起きる前に、少しでも多くの人に、新しい観点を届けたい。そんな想いはますます強くなる一方だ。

事態が起きてから命をかけてまで取材をしたくない。それは私がこわいから。そんな状況を見たくないから。私のエゴはどこまでも続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

池上彰氏特別対談

 

伝えるためには「ストーリーをつくれ」ー池上彰流「カンボジア」の伝え方ー

 

 

田中 最初に申し上げたように、僕は5年前に始めてカンボジアに行ってから足繁く通っています。カンボジアは現在フン・セン首相が30年以上政権を握る、いわゆる独裁体制です。汚職に対する強い批判もあります。一方でこれまでkにをつくってきた強いリーダーという声もあります。

今シリアは泥沼化と言われていますが、独裁政権というのは、泥沼化する可能性を秘めていて、悲惨な状況になる前に、何ができるだろうと考えているわけです。ポル・ポトの時代に起きたクメール・ルージュのような大虐殺は絶対に繰り返してはいけないですから。

しかし、独裁や悲惨な人権侵害って「どこの国でもあるよね」と皆思うわけです。

 

池上 そうなっちゃうよね。

 

田中 はい、なのでそんなカンボジアの状況や、いろんな国の問題を顕在化させることが、メディアやジャーナリストの1つの役割だと思うんです。

そのためにどう伝えていけばいいか模索しています。

 

池上 うん、カンボジアでいうとさ、カンボジアの国づくりに日本が貢献してさ、さらに日本人が2人、その過程で犠牲になっているわけじゃない。

 

田中 本当にその通りですね、日本人が亡くなっているということを知らない人も多いです。

 

池上 「カンボジアという国をつくるために日本人が血を流しているんだよ」という話をするだけでだいぶ伝わり方が違うよね。

 

田中 そうですね、先ほどの話と同じで、皆知っているものだと思っている。

 

池上 日本は自衛隊があちこちでPKO(国連平和維持活動)をやっています。

南スーダンですったもんだがあったけれども、最初に派遣されたのはカンボジアでしょ。

 

あるいはベトナム戦争が激化した結果、カンボジアが巻き込まれた。

そのあと大勢の難民が出るんです。

 

田中 インドシナ難民ですね。

 

池上 そう。国から小舟で出てくるからさ、南シナ海で船が転覆して大勢死んでしまったわけ。

 

田中 今のヨーロッパの難民と似ていますよね。

 

池上 似ているよね。

難民は日本に来ないと思い込み、日本は人ごとだった。

そしたらたまたま日本の神戸に向かう貨物船が、南シナ海で漂流していたインドシナの人を救うわけだよ。

 

田中 ほう。

 

池上 そして神戸港で彼らを降ろそうとしたら、日本側が「いやいや、ここで降ろしてもらったら困ります。日本は難民を受け入れません」と言って、難民を神戸で降ろさせなかった。

そのあとインドシナの人たちは横浜に向かうんだけど、そこでも日本は降ろさせなかった。

するとこの出来事が「日本はボートピープルの上陸を拒否した」という国際ニュースになるわけだ。

そしたらアメリカが「だったらうちが難民を引き取りますよ」と受け入れを表明するわけだ。

日本は「よかった、よかった。アメリカが難民を引き取ってくれた。これからボートピープルがきたら、皆アメリカに送ろう」とやりだしたら、アメリカは「てめえ、何やっているんだ」と。

 

田中 当然、アメリカは冷たい目で日本を見ますね。

 

池上 そう、そして香港にも大量の難民がたどり着いて、難民キャンプができていったんだ。インドシナ周辺の貧しい国々が、難民がたどりついたときのために難民キャンプをつくったんだな。

それなのにアジアで1番お金持ちの国・日本が難民を全く受け入れようとしなかった。だから日本は国際的な批判を浴びるわけ。

そこでようやく日本は難民条約を批准するんだ。それまで日本は難民条約すら批准していなかった。

 

田中 難民条約を批准するまでにそういう経緯があったですね。めちゃくちゃ面白い。

 

池上 難民条約を批准すると、難民をいったん無条件で受け入れなければいけない。だから難民定住センターをつくった。

東日本には神奈川県の大和市、西日本には兵庫県の姫路市につくりました。

 

難民として認定されたら定住を認めます。

そしてその子どもたちに日本語の教育をします。

約10万人のインドシナ難民が日本にきて永住権をもらい、そのときの子どもたちがそのまま日本人に帰化している。

だから、今日本にはベトナム系日本人、カンボジア系日本人が大勢いるわけだな。

それまで日本にはベトナム料理もカンボジア料理も全くなかった。

いまはあちこちにあるよな。そのほとんどのお店は、当時のインドシナ難民が日本に定住してお店を開いた。

 

田中 そうだったんですね、僕もよくお世話になっています。

 

 

池上 「へえ」となるだろ。

そしてさ、ベトナムやカンボジアはさ、ちょっと色はあさぐろいけど、顔が比較的似ているわけだな。そして仏教徒だろ?

 

田中 そうですね。

 

池上 だから日本に定着したんだよね。あと、ベトナムやカンボジアの人って謙虚だから、日本に対して「受け入れてくれてありがとうございます」と感謝の言葉を言ったりするんだよ。

 

 

田中 そういう人たちがカンボジアに帰って日本への感謝を言葉にすると、周りのカンボジア人も「へえ、日本っていい国じゃん」と好きになる。

それが国の交流になりますね。

 

池上 そう、その通り。

イスラム教徒の難民は、なかなか日本に受け入れられにくいんだよね

 

田中 日本にはモスクも少ないですしね。

 

池上 そう。

あとは、イスラムの場合、お礼を言わないんだよ。なぜかというと、施しをした人が天国にいきやすくなるから。つまり、お礼を言うべきは、私に施しをした人だろうってなるわけ。

これが、日本人とイスラム教徒がなかなかうまくいかない理由でもあるんだよね。

 

田中 なるほど、宗教の違いは難しい・・・。

 

池上 他にも、有名なドラマ・金八先生の生みの親といわれる小山内美江子さんという方がいるんだけど、

小山内さんはドラマでインドシナ難民の話を取り上げた。

そのとき初めてポル・ポトによるあの悲惨な大虐殺のことを学んだんだよ。

そしたら、「私はカンボジアの難民の話をドラマにしてお金儲けをしてしまった」と。

「だったらカンボジアの人たちに恩返しをしなければいけないんじゃないか」と思って、カンボジアに学校をつくる運動にのりだした。

 

 

田中 ああ、良い話ですね。

 

池上 いいよね。

さらにいえば、昔、毎日小学生新聞で子どもからこんな質問がありました。

「日本はお金がないのにどうして外国の人を助けるんですか?」

私はこう答えました。

「君たちのおじいちゃんやおばあちゃんが子どものとき、日本は戦争に負け、食べるものがなくなってしまった。そのときユニセフやガリオア・エロアという世界中の団体からの援助によって、学校給食で栄養をとり命を永らえることができたんだ。

つまり外国からの援助によって、君たちのおじいさんやおばあさんは生き延びることができたんだ。

もし生き延びることができていなければ、君たちはこの世にいないんだよ。

他にも、東海道新幹線や名神高速道路も外国からお金を借りて作ったんだ。

海外から助けてもらって今の日本があるんだ。そろそろ日本が恩返しをする番じゃないかな」と。

 

田中 やばい、僕がジーンときました。知っていてもそう伝えられると・・・。

次の国に恩を贈るってことですよね。

 

池上 そう、そうなの。つまりこれはストーリーなんだ。

伝えるためにはストーリーをつくれるかどうか。

「日本だって過去に援助してもらったんだから、今、日本が援助するのは当然でしょ」というのは、抽象的な論だから良くない。

 

田中 押し付けになりますね。

 

池上 ストーリーを作れば、話に耳を傾けてくれるわけだ。

「君たちのおじいちゃん、おばあちゃんが、君たちの頃に、生き延びることができたのは」というストーリー。

 

田中 一気に身近になりますね。

 

池上 そう。

 

田中 ああ、どきどきする。

 

 

池上 あるいは、インドシナでいうと、ASEANが経済統合したでしょ。AECになった。

ヨーロッパで言えばEECなんだな。

 

田中 どういうことですか?

 

池上 ヨーロッパって今EUだろ。

最初は、ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)で、それを経済的に統合しようとして、

EEC(欧州経済共同体)ができ、EC(欧州共同体)になり、EU(欧州連合)になった。

 

ASEAN諸国のAEC(ASEAN経済共同体)というのは、ヨーロッパでいうEECのレベル。これからEC、EUになる。

だからAECもやがてAUになろうと思っているわけ。

実はアフリカ連合がすでにあるからこの名称は使えないんだけどね。

ようやくそこまでなって、貿易が自由にできるようになってきた。

 

田中 なるほど、これからより経済が成長していきますね。

 

池上 カンボジアに行って「何事?」と思ったことがあったんです。

日本のあちこちにマンガ喫茶ってあるだろ。マンガ喫茶って、すぐ潰れてまたすぐできるんだよ。

 

田中 え、そうなんですか。

 

池上 そうなんだよ。マンガ喫茶が潰れたら、大量の漫画が出てくるわけじゃない。しかもかなり汚れている。

このマンガをベトナムに運んで、ベトナムの港で陸揚げをして「荷物を開けずに」そのままカンボジアに持っていけるんだ。なぜなら、今はAECになったから。

その運ばれてきたマンガを、カンボジアの若者たちがヤスリをかけて、綺麗にする。そしてそのマンガを日本に送り、日本でオープンした新しいマンガ喫茶に、カンボジアの若者が綺麗にしたマンガが入るんだよ。

 

田中 え、初めて聞きました・・・。

 

池上 知らないだろう。

そしてさ、これの1番いいところはね、最初、このマンガを綺麗にする作業は日本でやっていたんだよ。

どうなると思う?

漫画だろ、日本人は日本語が読めるから仕事中に漫画を読み始めてしまうんだ。

カンボジア人は日本語が読めないので漫画を読まない、つまり誰も仕事をサボらないっていうんで、こりゃいいというわけだ。

 

田中 おおおおお。

 

池上 おおおおお。

 

田中 それはどこから情報を知ったんですか?

 

池上 カンボジアにロケをしにいったときに知ったんだよ。

北陸に、漫画を供給する会社があるんです。

人件費が安いから、マンガを船でカンボジアに送って船で運んでまた日本に戻すほうが、日本国内でやるよりはるかに安いというわけだ。

 

田中 経済はつながっていますねー。

 

池上 つながっているでしょ。そこで仕事が生まれているわけ。

となると、日本で若い人に話をするときにさ、

「君たちがマンガ喫茶で読む漫画は、実はカンボジアの若者が綺麗にしてくれたのかもしれないんだよ」という話ができるじゃない。

1番いいのはな、「日本語が読めないから、仕事をサボらないんだよ」という

オチがつくわけだ。(笑)これが、ストーリーをどう作るかということ。

 

田中 いやー、僕、池上ワールドにひきこまれています。

 

 

 

 

あとがき

 

調査やモニタリングの対象とならない、下請け工場の下請け工場があるという新聞記事も見かけることがあった。

直接取材しなければここに文字を書いてはいけない。そう思い、はいずりまわったが、しかし、私はその工場を見つけることがどうしてもできなかった。

この詰めの甘い取材のまま、発表していいのか、何度でも取材してから出せばよいのではないか、と、何度も自分に問いかけた。決め手となったのは、SNSで発信だった。

私の「内戦が起こりうる可能性」についての発信に対するコメントが批判めいたものとなった。知らなかったと答える人もいて嬉しかった一方で、現地に住む人たちのほとんどが、現在の状況を楽観的に見ていた。

確かに、私がただ偏った見方を気づかぬうちにしすぎているだけかもしれないと思うこともある。しかし、人が政治的に死んでいるという事実は事実でしかない。今やるしかない。そのあせりが私を執筆に向かわせた。

彼らの日常を想い、世界で生きる人々の思惑や動きに少しでも向き合い、それぞれの役割に向けて皆が動いてほしい。そう願い、書き続けた。

物事は様々な角度から見ることができる。その1つの角度を示すことがジャーナリストとしての役割だと、何かの本で読んだことがある。その言葉が私を常に支えることになった。正直なところ、皆が想像しやすいこと、誰もがYESと答える問いを、その通りに、そのまま書くことは、非常に気持ちが楽なわけである。例えば、この世の中で、「下請け工場で働く人たちの人権が侵害されている」と聞いて、「そんなはずないでしょ」と答える人はほとんどいないはずである。だいたい「まあ、そりゃそうだよね」となる。日本だって昔の自動車工場は過酷であったし、今日本で働く外国人の人たちだって、苦労している話も聞く。私だって、「途上国の下請け工場での労働は過酷だよね?」と聞かれたら、「うん」と答えるし、何より私自身、そう信じ込んでいた。もちろん、私には非常に心残りがある。本当に、これで、縫製工場の労働者の人たちの気持ちがわかったといえるのか。実は、まだまだやりのこしたことがある。それでも、時間をかけて、お金をかけて、わけもわからず通い続けて、現場をはいずりまわった結果、やはり私が記してきた通りの事実がそこにはあったことは確かだとしか言えないのである。

何度も記すことになるが、「もし私たちが政権を取れなければ、私たちは戦争をすることになるだろう」という発言をし続けるフン・セン首相と、各野党の政権争いの決闘が、まもなく始まろうとしている。

前回の選挙ですら、大規模なストライキ含め、多くの人たちが、血を流し、涙を流してきた。そしてその選挙が終わってからこれまでにも起きた「事故」は紹介した通りだ。その被害が甚大になる前に、少しでも私たちの行動によって、予防することはできないだろうか。涙を流す前に、この問題について知ってもらうことはできないか。そんな気持ちが先走った。

ここまでの取材が一年後に、こんな取材でよく世に出せたなと恥ずかしい想いに駆られるかもしれないが、そのときはそのときである。まずは発信しなければ新たな観点は見つからない。これからも私にはまだまだやることがある。

最後に付け足しておくが、もう一つ私が使命感に駆られた理由があった。カンボジアに関する書籍はポル・ポトの時代やアンコール王朝といった歴史や遺跡についてばかりで終わってしまっていたのである。 だからこそ、今のカンボジアを切り取っておきたい、その想いがあったからこそ、ここまで書けたと思っている。

 

参考文献

  • 在カンボジア大使館ホームページ
  • カンボジア・デイリー
  • クメールタイムズ
  • プノンペンポスト
  • アルジャジーラ
  • ニューヨーク・タイムズ
  • カンボジア国家社会保障基金
  • 日経BP
  • South China Morning Post
  • アパレルリソースカンボジア
  • 本多勝一「検証・カンボジア大虐殺」
  • NHKスペシャル

 

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